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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・苅部直(政治学者・東京大教授)

    『球道恋々』 木内昇著

    野球草創期、情熱と戦い

     東京大学の農学部キャンパスには、一九三〇年代に作られた立派な野球場がある。それ以前、この敷地が旧制第一高等学校(一高)であった時代にも、場所は異なるが野球のグラウンドがあった。明治時代に学生たちが、この新しいスポーツに熱中し練習に励んだ、いわば日本野球史の聖地である。

     しかしこの野球の草創期は、若者を堕落させ身体を損ねるという、野球害毒論との戦いの時期でもあった。この小説の主人公、銀平は、一高野球部のOBで業界新聞で働いていたが、三十歳をすぎてから突然にコーチに就任することになる。そして、部員の少なくなったチームを建て直しながら、害毒論との論戦にも巻きこまれてゆく。

     時代は明治の末から大正のはじめである。旧制高校に広がり始めた個人主義・人格主義の風潮からも、野球への非難が高まっていた。そのなかで、かつて伝説の野球選手であった冒険小説作家、押川春浪が銀平の前に現われ、その野球チームに引き込んで、野球の是非をめぐるメディア間の論争(野球擁護派として登場するのは読売新聞である)の大舞台へと押し出すのである。

     実は銀平は在学中は控えの選手として終わり、大学への進学も果たせず、不本意な就職をしていた。しかし野球との再会をへて、自分がそれに打ち込んできたことの意味を、しだいに実感するようになる。

     人生は自分の理想どおりにはならない場合が多い。だが熱中できる何かを持ち続けていれば、立派に充実したものになるだろう。登場する多数の野球部員や野球人のうちには、近代史で知られる名前も見られ、この人物もそうだったのかと驚かされる。しかし有名か無名かにかかわらず、彼らはみな野球への情熱を保ちながら真剣に生きていた。その姿が、読者の背中をしっかりと支えてくれるようである。

     ◇きうち・のぼり=1967年生まれ。作家。『漂砂のうたう』で直木賞。『櫛挽道守』で中央公論文芸賞など。

     新潮社 2100円

    2017年07月17日 05時27分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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