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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・長島有里枝(写真家)

    『ゼンマイ』 戌井昭人著

    幻の女を捜す二人の男

     男の人は、かつて好きだった女性の思い出を大切に持っているものだと聞いた。確かに、共通の知り合いやSNSを辿たどって連絡してくる昔の男友達がいる。用があるわけでもなさそうなメールには、「あの頃」のことがつづられている。この小説の主人公、竹柴保たけしばたもつもまさにそんな男だ。

     裸一貫から輸送会社の社長に成りあがった彼は、なにひとつ不自由ない晩年を過ごしている。しかし彼には、フランスから来た「ジプシー魔術団」という一座のトラック運転手をしていて出会った、ハファという忘れられない女がいた。もう一度彼女に会うため、竹柴は細谷進という男を雇い、モロッコに向かう。

     タイトルのゼンマイとは、旅回りが終わって帰国するハファが竹柴に贈った魔けのことだ。ゼンマイがついているのに、音が出るなどの仕掛けが一切ない、小さな木の箱だ。止まると悪いことが起こると信じる竹柴はこれを長年巻き続けてきたが、旅に出た途端「これ、適当に巻いといて」と、知り合ったばかりの細谷にあっさりゆだねる。目に見える作用がないからこそ魔除けの信憑しんぴょう性は高まり、細谷が巻き忘れて止まったゼンマイの箱をポケットから取り出すたび、読み手は、何か悪いことが起こるのではないかと不安になる。魔術団の興行に関わった人はみな不幸な結末を迎えるとハファが予言した通り、仲間たちは竹柴を除いて次々に死ぬ。社会の周縁に生きる男たちの数奇な運命、モロッコの人々の暮らし、竹柴自身の半生の話に、聞き手の細谷と共にぐいぐい引きこまれる。

     怪しげなタンジェの街で、いるかいないかもわからない女を探す二人の男の距離感がとても良い。ラストでは生きるということ、人を愛するということの静かな美しさがしみじみと身に染みた。一人の女性への思いを淡々と胸に住まわせて生きた竹柴という人は、なんて愛らしく健気けなげなのだろう。メールをくれる男友達の気持ちが少しわかった気がした。

     ◇いぬい・あきと=1971年東京都生まれ。小説家、劇作家。小説『のろい男』で野間文芸新人賞。

     集英社 1300円

    2017年08月07日 05時26分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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