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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・納富信留(ギリシャ哲学研究者・東京大教授)

    『背教者の肖像』 添谷育志著

    書物の大河が訴える力

     辻邦生が『背教者ユリアヌス』を雑誌『海』で発表したのは1969年から72年。連載を毎月心待ちにしていた著者は、そこから育ったローマ皇帝ユリアヌスへの関心、いや彼をめぐる言説への関心を、浩瀚こうかんな書物の読解から展開する。ギリシア、フランス、イギリス、近現代日本。本から本へと渡り歩くと変転するユリアヌスの肖像から、それを読み、共感し反発してきた人々と時代が浮かび上がる。著者の私的な読書体験がつづられ、時に主題を外れた縦横な批評が論じられる。政治思想史研究者の視点は、歴史上のユリアヌスを超えた世界を眺める。

     モンテーニュ、ギボンらのユリアヌス論、さらにオークショットの歴史論と読み進めると、コンテキスト(文脈)をずらすことで見方が変わり、見る者自身が「改訂」される。明治末から翻訳されるメレシコーフスキーの小説『背教者ジゥリアノ』(別名『神々の死』)に、日本人はなぜ熱狂したのか。それを無視することで書かれた辻の小説は、同時代の左翼運動にどう関わったのか。著者の視線は、とりわけ現代日本の言論に向けられる。

     歴史や小説や翻訳という叙述が検討され、陸続と書籍が紹介され引用される様は、さながら書物の大河。「ポスト真実」と呼ばれる現代に著者が訴えようとするのは、言葉の潜在的な力、楽しさであろう。「リベラル・アイロニスト」という人々、そして著者は、ユリアヌスに触発されて豊穣ほうじょうな言論を生み出す。

     私も、本書に関連する2冊を紹介しよう。昨年出た本格的研究書、中西恭子『ユリアヌスの信仰世界』(慶應義塾大学出版会)は、信仰心と宗教を中心に史料からユリアヌス像を丹念に読み解く。また、本書でも言及されるローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスの同時代史料『ローマ帝政の歴史1』(山沢孝至訳、京都大学学術出版会)も「西洋古典叢書そうしょ」から刊行された。読書と人文学の楽しみは尽きない。

     ◇そえや・やすゆき=1947年生まれ。明治学院大名誉教授。著書に『近現代英国思想研究、およびその他のエッセイ』。

     ナカニシヤ出版 3000円

    2017年11月13日 05時22分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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