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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・土方正志(出版社「荒蝦夷」代表)

    『シンパサイザー』 ヴィエト・タン・ウェン著

    揺らぐ、流浪のスパイ

     優れたスパイ小説は思いも寄らない歴史と人間の深淵しんえんをのぞかせてくれる。例えばジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』、グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』、トレヴェニアン『シブミ』などが思い浮かんで、なるほどスパイが人類最古の職業のひとつに数えられるだけのことはあるわけだが、だからこそこのジャンルは読者を魅了するのか。本書はその系譜を受け継ぎ、ピュリッツァー賞や米探偵作家クラブ賞最優秀新人賞など米文学賞八冠も納得の新たな傑作である。

     一九七五年、ベトナム戦争終結間近、南ベトナム秘密警察長官の「将軍」の右腕として働く主人公は、実は北ベトナム(現在のベトナム社会主義共和国)のスパイでもあった。やがて将軍に従って米国へ脱出、祖国への帰還を謀る同胞たちと辛苦を共にしながら、彼のスパイ活動は続き、そして……スリリングにミステリアスに、ダークにブルーに、みっしりと物語は進む。

     本音を隠して敵の中で生きるスパイとしての「生」が、異文化に投げ込まれた人間のアイデンティティ追求と重ね合わされて、本書は移民文学へとつながる。さらに欧亜混血の主人公はさまざまな差別にさらされる「見えない人間」であり、あるいは東洋の幽霊じみた存在でもある。揺らぎに揺らぐアイデンティティのもと、国家が民族が人種が語られ、文化と異文化が、移民が語られる。仲間を裏切りながら、同調者として同情者として主人公の運命もまた揺らぐ。とはいえなにせスパイなのだから、もちろん「信頼できない語り手」である。一人称の語りがやがて三人称に、そして「私たち」となって、ついには読者も物語に巻き込まれる。

     主人公と同じくアメリカに渡ったベトナム人として本書を書かずにはいられなかった、そんな著者の「熱量」を感じる。続編も予告されて、流浪のスパイの視線でアジアの「歴史の悪夢」を切り取るシリーズになるのか、期待したい。上岡伸雄訳。

     ◇Viet Thanh Nguyen=1971年ベトナム生まれ。75年家族と渡米。現在、作家の傍ら大学の教壇にも立つ。

     早川書房 2600円

    2017年11月13日 05時23分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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