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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・納富信留(ギリシャ哲学研究者・東京大教授)

    『内乱の政治哲学 忘却と制圧』 神崎繁著

    博捜的思索の到達点

    神崎繁様

     あなたが亡くなってちょうど一年の日に遺稿集が刊行されました。生前に発表された2本の長大な論考に加えて、死の直前にまで手直しされていた原稿が、友人たちの編集を経て思索の現場を再現しています。あなたが63年の人生で到達された思考が、こうして美しい本になったのは、何よりうれしいことです。

     「忘却と制圧」という副題は、政治と哲学の臨界に挑むあなたの関心の終着点を示します。ギリシア哲学・古典学の最先端の研究でありながら、政治の現実、私たちの生きる現場に鋭く投げかけられる問い。古代ギリシアで初めて発せられたアムネスティー、「悪の記憶の禁止」―現在は「大赦」と訳されます―とは何か。それへの哲学者たちの言及や沈黙から、内乱や和解をめぐって思索が促されます。プラトン、ホッブズ、現代の間を行き来する論述は一見錯綜さくそうした迷宮のようですが、そこに浮かび上がる視野と問題喚起力こそ、あなたが得意とした独特の論法でした。今まざまざとおもおこします。

     アリストテレスを読んできた西洋哲学の豊かさと屈折を、ヘーゲル、マルクス、ハイデガーに辿たどる長編論文は、彼らがギリシアをどう読み込み、自分の哲学に変容させたかを示す哲学史の真骨頂です。あなたが専門としたアリストテレスを、マルクスは考察の問いを掘り起こす「水探知の願い棒」と呼びました。あなた自身の考察は、テクストを読みながら水源を見出みいだすアリストテレスのもう一人の子供であり、私たちにとって変わらぬ優れた水先案内人です。

     本書のテーマは記憶と忘却です。哲学は不在の意味を書かれた言葉から読み解き、現在として生き直す営みです。それは忘却を超えて死を受け継ぐことであり、魂の痕跡を辿る旅です。あの自在で博捜はくそう的な思索はもうありません。あなたのお仕事を見届けた私たちは、それぞれの仕方でその記憶と志を引き継いでいきます。

     ◇かんざき・しげる=1952~2016年。首都大教授などを歴任(西洋古代哲学)。著書に『魂(アニマ)への態度』。

     講談社 2400円

    2017年12月04日 05時25分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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