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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・青山七恵(作家)

    『ギリシャ語の時間』 ハン・ガン著

    ささやかで切実な痛み

     現代韓国文学を代表する作家ハン・ガンの長編小説。ページに降り積もる言葉の一つ一つに、薄紙で指先を切ったときに感じるような、ささやかだけれど切実な痛みが宿っている。

     ある日言葉を発せられなくなった女(名前は与えられていない)は、古典ギリシャ語の教室に通い始める。少女時代に同じ状況に陥った際、未知の言語との接触が言葉を取り戻すきっかけになったからだ。しかし幼い頃から文字の形や音韻の規則に魅了され、同時に苦しめられてもきた彼女の心は今、言語そのものへの畏怖で塞がれている。「数えきれない舌によって、また数えきれないペンによって何千年もの間、ぼろぼろになるまで酷使されてきた言語というもの。(中略)一つの文章を書きはじめようとするたびに、古い心臓を彼女は感じる。ぼろぼろの、つぎをあてられ、繕われ、干からびた、無表情な心臓」。この無表情な心臓は言語の心臓でもあり、母を亡くし、離婚によって子どもと引き離された女自身の心臓にも重なるようだ。一方、彼女が通うギリシャ語教室の講師の男は、思春期のドイツ移住によって分断された言語と肉体を通し様々な喪失を経験してきた。遺伝性の病で徐々に視力を失いつつある彼もまた、失われた時間と場所の中に閉じこもっている。

     孤独な二人が彷徨ほうこうするソウルの街が、絶えず人々のざわめきや高速道路の轟音ごうおん、虫の鳴き声に満ちた生命の躍動をたたえているのに対して、その世界とすれ違い続ける彼らの内的世界は深海のように静まり返っている。しかしその二人がぎこちなく互いの目をのぞきこみ、互いの息の音を聞き、互いの肌に触れあうとき、暗闇にわずかな光が差す。全てのわだかまりを光に溶かして闇の底から浮上していく二人の沈黙の中に、死にゆく言語と生きた言語が溶けこんでいく。その豊穣ほうじょうな沈黙に再び言葉としての形を与えようとする営みこそが、文学なのかもしれない。斎藤真理子訳。

     ◇韓江=1970年韓国生まれ。『菜食主義者』で英国のブッカー国際賞をアジア人作家として初めて受賞。

     晶文社 1800円

    2017年12月25日 05時28分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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