文字サイズ
    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

    『時代を「写した」男ナダール』 石井洋二郎著

    皆を観客にした興行主

     まるで作り話のような人生である。本名ガスパール=フェリックス・トゥルナション、通称ナダール。写真家のイメージが強いが、本格的に撮り始めるのは三〇代半ばになってから。もとは医学の道を志していたものの、ボヘミアン的な生活の中で物書きに転身、批評や小説を執筆しつつやがて風刺画家として人気を博す。その後ボードレールやユゴーなど当代きっての著名人たちの肖像写真家として成功するが、四〇代になると気球による飛行に熱中。一八六三年には二〇万人が見守るなか「巨人号」で空中散歩に旅立つも失敗、二度目の挑戦の折にはナポレオン三世の訪問を受けている。十九世紀のフランスをにぎにぎしく駆け抜けた彼自ら、こう語っている。「私が夢を見ているのなら、もっと夢を見させてほしい――だが、私を目覚めさせることなどできるものか!」

     この世は舞台、人はみな役者、とはよく言ったものだ。しかしナダールが凡百の「役者」と異なるのは、あらゆる人をきつけて自分の「観客」にしてしまう、その興行主としての才覚だろう。最終的に皇帝までをも観客にしてしまったことは先にも書いたとおりだが、宣伝上手なのに加え、やはり彼自身のトリックスター的な魅力も大きかったはずだ。若き福沢諭吉も文久遣欧使節団の一人としてパリを訪れ、ナダールに撮られている。その折には、壁掛けの後ろに隠しておいたオルガンを弾いて和ませるというサプライズがあったそうだ。

     本書はナダールの伝記であると同時に、彼を主人公とする歴史絵巻でもある。だが読んでいくうちに奇妙な感覚に襲われる。歴史の証拠となる人物や建物、さらには地下の汚水路やカタコンベ等を写した写真が多数挿入されるのだが、それらの多くがナダール自身によって撮影されているのだ。ナダールが見たものを通して、ナダールが生きた時代を見る。気づけば私たちも、二重の意味で彼の観客なのである。

     ◇いしい・ようじろう=1951年生まれ。東京大名誉教授。地域文化研究・フランス文学。

     藤原書店 8000円

    2018年01月22日 05時23分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大手町モールのおすすめ
    帆布鞄
    リンク