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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・岸本佐知子(翻訳家)

    『金曜日の本』 吉田篤弘著

    魔法のような子供時代

     子供のころは、特殊なゴーグルをつけて生きていたような気がする。そのせいで世界はうんと狭い範囲しか見えないけれど、同時に他人には見えないようなものが見えたり、何でもないものが異様に美しく目に迫ってきたりする。

     『金曜日の本』は、一九六二年生まれの作者が、子供時代を過ごした世田谷の思い出をスケッチした回想録だ。誰のものとも似ていない小説を書き、装丁家としても知られる作者の、特別の魔法のかかったゴーグルを通して見た町の姿が、色や音や匂いまでともなってありありと立ち上がってきて、目眩めまいと興奮のうちに読んだ。

     いつも震度2ぐらいで揺れている古本屋。町に二つだけある、特別おいしい水の出る秘密の蛇口。広壮なバラ園の奥に住む美青年の大家さん。失踪して自分の家の屋根裏に隠れていたブリキ屋の主人。途方もない豪邸だったりつましいあばら家だったりに住む、でもみんなどこか独りだった友人たち。発明されるさまざまな遊び――酒瓶のフタ集め。壁新聞。漫画の吹き出しを塗りつぶして台詞せりふを考える。架空のバス運転手になりきる。架空バンドで架空の歌を出す――。感情を交えず小石を一つずつ置いていくような淡々とした語り口なのに、なぜか語られる記憶はどれもうっすらと幻想味をおびる。

     何より美しいのは、その合間合間に語られる、濃密な、ほとんど秘め事のような本との関わりだ。ドッジボールの輪を離れて、ふと忍び込んだ無人の図書室の描写はとりわけ素晴らしい。〈ほとんど聞こえない静かな声で本は語りつづけているようだった。だから、図書室や図書館はいつも静かなのかと納得した〉。

     ここに出てくる景色も物も経験も遠い昔のできごとで、もちろん今はどこにも存在しない。切ないけれど、だからこそよけいに、このたぐいまれな観察者の目と記憶回路を通して、それらがこうして文字の形で保存されたことが、得がたい奇跡のように思える。

     ◇よしだ・あつひろ=小説執筆の傍ら、「クラフト・エヴィング商(かい)」名義で著作や装丁の仕事を続ける。

     中央公論新社 1500円

    2018年02月19日 05時24分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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