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    読売新聞の読書委員らによる書評のコーナーです。
    評・伊藤亜紗(美学者・東京工業大准教授)

    『なぜ世界は存在しないのか』 マルクス・ガブリエル著

    「新しい実在論」平易に

     面食らうタイトルだが、平易な話し言葉で書かれた哲学書である。著者は、いま世界的に注目を集める若き哲学者マルクス・ガブリエル。古代哲学やドイツ観念論から出発し、三〇歳を待たずしてドイツ史上最年少で哲学教授に就任。その彼が、仲間とともに提唱するのが「新しい実在論」なる立場だ。

     訳者のあとがきにもあるように、その背景にはきわめて時事的な問題意識がある。彼らがあらがおうとしているのは、メディアに後押しされたポピュリズムの隆盛である。豊富な日常的事例がちりばめられ、最終章がテレビ番組の分析にあてられているのはそのためだ。たとえば戦争を起こすために「大量破壊兵器の存在証拠が捏造ねつぞうされる」とき、そこで起きているのは「事実は存在しない、解釈だけが存在する」というニーチェの言葉を地で行くような悪夢だ。

     ものや対象の「見え方」を重視して「現実」を軽んじる思想。それはとりもなおさず、ポストモダンを通じ哲学が推し進めた立場である。そしてそのルーツは、カントにまで遡れると著者は言う。カントこそ、人間は「もの自体」にはアクセスできず、自分の認識的な枠組みによって加工されたものしか知り得ない、という主張の創始者だからである。

     私たちがそれをどう認識するかにかかわらず、ものや対象は確固として存在している。ただし、個々の文脈に応じたさまざまな見え方があるだけであって、すべての見え方を包括するような絶対的な文脈(=世界)は存在しない。それは別の言い方をすれば、安心して寄りかかれる「全体」などない、という通告だ。目からうろこが落ちるような新しい哲学には見えない。論証の厳密さも疑問の余地がある。ただ、本書は問うてくる。寄りかかれるものがないなかで、尽きることのない意味を、私たちは発掘しつづけられるのか。私たちにそのタフネスがあるのか、と。清水一浩訳。

     ◇Markus Gabriel=1980年生まれ。独ボン大教授。著書にスラヴォイ・ジジェクとの共著『神話・狂気・哄笑』。

     講談社選書メチエ 1850円

    2018年03月05日 05時26分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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