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    イギリスの食や酒、文化や歴史に魅せられた人のインタビュー、イベントやニュースをお届けします。
    インタビュー

    老いて気高くしたたかに…帝国・シティー・紳士(3・最終回)

     19世紀に絶頂を迎えた大英帝国は、20世紀に起きた2度の世界大戦で「戦勝国」の地位と引き換えに国力を失う。世界帝国は消えたが、その強さとは何だったのか。そして、威厳を保ちつつ、植民地から撤退したイギリスの軌跡が我々に語りかけるものは--。『イギリス帝国の歴史』の著者で、大阪大教授の秋田茂氏とともに引き続き考える。

    帝国の礎・海上覇権

    • ネルソン記念柱がそびえるトラファルガー広場
      ネルソン記念柱がそびえるトラファルガー広場

     ロンドンには、イギリス史に残る英雄、兵士や市民を(たた)えるモニュメントがいたるところにある。過去が町並みに埋め込まれ、歴史を常に意識させずにはおかない空気は、先例が決定的な意味をもつ慣習法の国であることと、どこかで通じているような気がする。

     とりわけ威容を誇るのは、トラファルガー広場にそびえるネルソン記念柱。巨大な4頭のライオン像に囲まれた高さ46メートルの柱の上に、5.5メートルのネルソン像が立つ。その巨大さが、この人物がイギリス最大の英雄であることを知らしめている。

     1805年のトラファルガー沖の海戦でイギリス艦隊を率い、フランス・スペイン連合軍を破ったネルソンは、ナポレオンのイギリス上陸を阻止した。海戦で敵艦から狙撃されて命を落としたが、遺体は腐敗を防ぐためにブランデーの(たる)につけて祖国に持ち帰られ、セント・ポール大聖堂に葬られた。

     この海戦での勝利によってイギリスは制海権を確保し、世界各地との貿易を通じて富を蓄積していく。イギリスの海上覇権に支えられた19世紀の繁栄期は、ローマ帝国の「パックス・ロマーナ」(ラテン語でローマによる平和)になぞらえ、「パックス・ブリタニカ」と呼ばれる。

    • エリザベス2世の在位60年を記念して設置されたモニュメント
      エリザベス2世の在位60年を記念して設置されたモニュメント

     15世紀に始まる大航海時代に栄華を誇った植民地国家・スペインから、仲介貿易で17世紀に繁栄した商業国家・オランダ、そして産業革命による工業化を武器に広大な領域で貿易を展開したイギリスへと、最強国家の座は引き継がれた。その勢力圏は、インドやカナダ、オーストラリア、シンガポールといった「植民地(公式帝国)」だけでなく、経済的な影響下(非公式帝国)に置かれた中国、オスマン帝国、ラテンアメリカなど、広範囲に及んだ。

    巧みな外交のルーツ

     国を繁栄に導いた強さとして、軍事力と表裏をなす外交力がある。『大英帝国衰亡史』(中西輝政著)は、ローマ教皇からの独立を主張した16世紀のヘンリー8世から、植民地の大半を失う1960年代まで、約400年間に及ぶイギリス外交を支えた精神を描いている。その原点と位置づけられたのが、スペインの無敵艦隊に勝利したエリザベス女王時代(1558~1603)。

    • テムズ川沿いに立つ「MI6」。情報を重んじるイギリス外交の象徴
      テムズ川沿いに立つ「MI6」。情報を重んじるイギリス外交の象徴

     スペインやフランスといった超大国の力のバランスを見極め、計略をめぐらせ、自国の安全保障の道を探る。イギリスの防衛にとって重要な対岸の「低地」(現在のオランダ、ベルギー)が軍事大国に占領されないような方策をとることなど、その後に引き継がれる外交の原則が打ち立てられた。宰相ウォルシンガムはスペイン戦に向け23項目にわたる綿密な情勢分析の閣議文書を作成し、ジェイムズ・ボンドの映画でも知られる現在の情報機関「MI6」に連なる徹底した情報の重視という伝統を創始した。

     著者の中西氏が強調したのは、帝国の衰亡に果たした指導者の精神的な要因。その一例として、17世紀の外交官、ウィリアム・テンプルら、安易な自己保身や迎合に走ることなく、国家の遠い将来を見据えて行動する「剛直なエリート」、「紳士外交官」の伝統をあげた。

    覇権国家・イギリスの力の源は?

     秋田教授の話「小さな島国であるイギリスが、広大な領土を支配下に置き、貿易を通じた富の蓄積で繁栄するには、知恵と戦略が求められました。最初は仲介貿易で栄えたオランダを排除するため外国船を排除し、国が特許を与えた東インド会社などが貿易を独占する保護貿易でしたが、産業革命によって競争力が高まると、自由貿易へと転換していきます。19世紀の海外進出では、『植民地』と、統治のコストがかからない『非公式帝国』を使い分けながら、自由貿易を広げる戦略をとります。

     繁栄に陰りが見え始めたのは1880年代から。ドイツやアメリカが急速に工業化を進め、イギリスの工業製品は競争力を失います。蒸気船による太平洋横断航路の開設やスエズ運河の開通、アメリカ大陸横断鉄道の完成といった交通手段の発達(運輸革命)で、安い農畜産物が欧米にもたらされる。貿易赤字は倍増し、経済的には衰退に向かいます。自由貿易はしばらく維持されますが、自由貿易か、保護貿易かが、最も大きな政治のテーマでした。

    • 19世紀に中国から紅茶を運んだ快速帆船「カティ-サーク」
      19世紀に中国から紅茶を運んだ快速帆船「カティ-サーク」

     一方、イギリスには、世界中の国々が利用するものを国際公共財として提供し、経済、軍事、文化での国際ルール作りを主導してきた強みがあります。

     こうした国を覇権(ヘゲモニー)国家といいますが、イギリスは、国際金本位制や鉄道・蒸気船のネットワークや海底電信網、国際郵便、グリニッジ時間を基準とする世界標準時、国際法、海軍力に支えられた安全保障体制といった仕組みを提供し、外交や金融、貿易、通信や法律などのルールや基準を最初に設定しました」

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    チャーチルは国益を損ねた?

    • 第1次大戦の塹壕に掲げられた「住所表示」。長期戦で多くの兵士が命を落とした(帝国戦争博物館で)
      第1次大戦の塹壕に掲げられた「住所表示」。長期戦で多くの兵士が命を落とした(帝国戦争博物館で)

     20世紀のイギリスは、世界中に築いた領土の再編・撤退を迫られた時代だった。アフリカ南部の植民地支配をもくろんだ南アフリカ(ボーア)戦争(1899-1902年)は、多くの兵力を投入しながら苦戦し、戦争の目的や大義に国内からも疑問の声が出た。

     1914年8月、国土防衛にとって重要な「低地」であるベルギーにドイツが侵攻したのを機に、イギリスは第1次大戦に参戦。兵器の発達で総力戦となり、戦争途中で徴兵制を導入する。「クリスマスまでには終わるだろう」と思われていた戦争は1918年11月まで続く。イギリスは帝国全体で919万人の兵士を動員し、そのうちイギリス軍の戦死者は約90万人ともいわれる。

     イギリスは、6年に及ぶ第2次大戦でも勝利をおさめるが、巨額の戦費で外貨準備は底をつき、国家財政は破綻寸前となる。「いかなる犠牲を払ってでも勝利を」「われわれは決して降伏はしない」の名演説で、国を率いて勝利に導いた首相ウィンストン・チャーチルは今も英雄として根強い人気を誇る一方、「国益を損ね、英国を衰退させた一大責任者」との見方もある。

    • ロンドンの国会議事堂前広場に立つチャーチルの像
      ロンドンの国会議事堂前広場に立つチャーチルの像

     『大英帝国衰亡史』は、総力をあげてドイツに徹底抗戦するのではなく、輸出によるギリギリのレベルでの外貨獲得と財政の確立で、経済的な資源を温存する、別な戦い方があったのではないかと指摘。敵の疲弊や他の大国の参戦を待つやり方こそ、幾多の戦争を勝ち抜いてきた「大英帝国のスタイル」だったとしている。

     今も英雄の功罪が議論になるほど、第2次大戦の及ぼした被害は甚大で、この大戦を機に国際政治における主導権はイギリスからアメリカへと移る。

    撤退の枠組み

     世界帝国を引き継ぐ緩やかな枠組みとしてイギリスが作ったのが、同じ英国王の王冠をいただく友好国でつくるイギリス連邦(the British Commonwealth of Nations)という連合体だった。白人入植地から生まれたカナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカは自治領となった後、1931年以降は本国と対等な立場になった。

     一方で、軍事力で征服した非白人地域のインドなどの植民地は、その後も従属的な立場に置かれたが、第2次大戦後に次々と独立。ミャンマーやエジプトなど一部の国をのぞき、大半がコモンウェルス(1949年にイギリス連邦から名称変更)に属することになる。

     海外領土に対して、帝国の一員として協力を求めながらも、徐々に権限を委譲し、独立を認めた後も、緩やかな連合体としてつながりを残した。

    引き際が上手な国

     秋田教授の話「イギリスにとって、植民地からの撤退の歴史は、アメリカ独立戦争(1775-83年)から始まります。戦争に負けたイギリスは、アメリカの独立を認めざるを得ず、北米の植民地を失いましたが、両国間の貿易はお互いにとって不可欠で、多くの移民もいた。戦ったとしても、関係を断絶するのでなく、重要なパートナーとして、いい関係を続ける。そのパターンが、その後の脱植民地化(decolonization)に適用されていくんです。

     第2次世界大戦後、アジア、アフリカでナショナリズムが高まり、独立に向けた動きが活発になりますが、イギリスは巧みでした。植民地戦争はほとんどない。イギリスが自らの権力を、独立する国のエリートにスムーズに渡す。香港の返還式がそうでしたが、国旗をおろして粛々と退場していく。あのイメージなんですよ。

     ユダヤ人とアラブ人の双方に独立を約束し、その後も泥沼が続いた中東政策の失敗はありましたが、外交は巧み。引き継がれる方も植民地時代にひどいことをされたはずなのに、イギリスに対して批判的なスタンスをとらない。むしろイギリスと協力関係の維持を選ぶ。

     その典型はインドです。インド独立後に首相となったネルーは、演説ではイギリスの植民地政策を厳しく批判します。インドは250年にわたって搾取され、その過程で飢饉(ききん)が起き、数千万人も亡くなっている。しかし、ネルーは最終的に、イギリス連邦の枠組みにとどまる決断をします。イギリスにとっては理想的な植民地からの撤退の仕方でした。

     共和制・大統領制として独立したインドに残ってもらうため、イギリスは1949年、『the British Commonwealth of Nations』から『the British』を外し『the Commonwealth of Nations』とします。英国王に忠誠を誓うことを条件とするのをやめたのです。

     イギリスは、奴隷貿易や植民地経営での残虐な行為、帝国主義的な侵略行為など、過去の責任を問われかねない負の歴史を数多く背負っていますが、正式な謝罪をしたという話は聞きません。帝国支配の経験で培った技術、ネットワークを使い、巧みな外交を積み重ね、批判や不満を封じ込めてきたからではないでしょうか。

    • ドーバー海峡に設置された第2次大戦のモニュメント
      ドーバー海峡に設置された第2次大戦のモニュメント

     広大な植民地を経営し、そこから撤退するという長い経験によって、イギリスの外への目配りと自国の利益についてのバランス感覚は研ぎすまされます。植民地経営や脱植民地化は、相手の国の立場に立って考えるという作業が不可欠ですから。

     イギリスは脱植民地化で苦労しますが、日本はそうした経験がありませんから、その難しさはわからないと思う。第2次大戦後に大陸で残留孤児やシベリア抑留の問題が起きますが、敗戦で強制的に追い出され、自らの意思で撤退したわけではありません。

     日本は、戦後復興の時期にアメリカとの協調がとにかく大事でしたから、アメリカ以外の国への目配りはあまり必要なかったし、その配慮も欠けていました」

     

    衰退し、病めるイギリス

    • 11年半にわたって政権を率いたサッチャー首相(1990年11月28日撮影)
      11年半にわたって政権を率いたサッチャー首相(1990年11月28日撮影)

     社会保障による財政の悪化や、製造業の空洞化による国際競争力の低下などから、「英国病」という言葉が1960年代後半に生まれた。国際収支の悪化からポンドは弱体化。失業が増えて庶民の生活は悪化し、労働組合のストライキが頻発する。

     資本主義発祥の地であるイギリスがなぜ「衰退」したのかを巡って、様々な説が唱えられた。市民革命や産業革命が早すぎたため、社会や経済、技術が古いまま固定されてしまったという説や、製造業を重視せずに金融を重視する紳士的な価値観に原因がある、あるいは労働組合の力が強く、福祉を重視しすぎることが元凶だとする意見もあった。

     1979年に始まるサッチャー政権が、基幹産業の民営化や金融の自由化、社会保障の削減、労組との対決などの大胆な改革に踏み切り、イギリス経済は復活する。

     戦後、イギリスは外交面では激動する国際政治で、重い決断を繰り返し求められてきた。

     「王権と議会」をキーワードに書かれた『物語 イギリスの歴史』(君塚直隆著)は、イギリスが国際政治で一定の役割を演じる上で重要なのは、特別な関係で結ばれた「アメリカ」と「コモンウェルス(旧英連邦諸国)」、「ヨーロッパ」という「三つの輪」の真ん中にいることだとする、チャーチルの1948年の言葉を紹介している。

     1973年にEC(ヨーロッパ共同体、後のEU)に加盟し、コモンウェルスの存在感は次第に低下していく。帝国からの撤退とヨーロッパへの参加が同時進行する。

     サッチャー政権は反共産主義の立場でアメリカとともに旧ソ連と厳しく対峙(たいじ)した。一方、議会の承認を得ずにアメリカとともにイラク戦争への参戦を決断したブレア首相は戦争後、急速に人気を落とす。アメリカの力の衰えとともに、英米関係も変化しつつある。

     移民の大量流入によるEUへの不満の高まりを受けて、キャメロン首相はEUからの離脱を問う国民投票を行うとしている。もはやイギリスが「三つの輪」の真ん中にいるのは不可能であり、新たな道を模索しているようにみえる。

     全盛期に世界の陸地の4分の1を支配した「世界帝国」の名残から、イギリスは今も多くの民族や文化が共存する国だが、その求心力をどう保つかという試練にも直面している。階級社会の名残はいまだに社会の随所にみられ、所得格差は拡大しているという。イギリス帝国がこれまで培ってきた知恵や伝統は、他の国にとって学ぶことのできる共有の財産であるだけでなく、自らが直面する課題を解決する上でも欠かせない遺産だ。

    国際ルールと知の体系

    • 南アジア出身者がカレー店を多く構えるブリックレーン
      南アジア出身者がカレー店を多く構えるブリックレーン

     秋田教授の話「イギリスが主導して作り上げた国際ルールは第2次大戦後、アメリカに引き継がれました。同じ英語圏だし、価値観や宗教も基本的には同じなので、イギリスにとっては違和感なく自らの存在を主張していける枠組みで、好都合です。

     一方、第2次世界大戦後に台頭した国にとってはイギリスとアメリカが築いた国際ルールに従わざるを得ない構造になっている。イギリスやアメリカの大学に放っておいても優秀な学生が来るのは、アングロ・サクソンの定めた国際ルールを学ぶためです。こうした国際秩序に挑戦しようとしているのが中国です。

    •  王室主催の競馬レースに姿を見せたエリザベス2世(アスコット競馬場)
       王室主催の競馬レースに姿を見せたエリザベス2世(アスコット競馬場)

     現代社会における広い意味での知識、技術の大半は18世紀後半から19世紀のヨーロッパで形成されたといっていい。それらはイギリスがキリスト教の布教を目的に設立した海外伝道協会による英語教育などを通じてアフリカ、アジアに広まり、ミッション系の学校も設立された。我々は気づくと気づかないとにかかわらず、イギリスが深く関与した知の体系の中にいるのです。アジアが経済的に豊かになっても、それは最後まで残るような気がします」

     

    イギリスの核心とは?

    • 英国議会のウェストミンスター宮殿からテムズ川をのぞむ(VistBritain/Andrew Pickett)
      英国議会のウェストミンスター宮殿からテムズ川をのぞむ(VistBritain/Andrew Pickett)

     秋田教授の話「多民族国家であるイギリス社会のアイデンティティーは確かに見えにくくなっていますが、その一つは政治だと思います。議会でのディベートに支えられた政治運営という議会制民主主義。それから英語です。均一さを求める日本の社会に比べ、多くの移民を受け入れ、民族や文化の多様性を認めています。でも、英語を通じてイギリス的な発想や価値観に染まって行くだろうという自信もあると思う。英語を習得し、専門知識を身につければ、弁護士や医師、技術者になる道が開けることは移民にとっても大きい。世界共通語となった英語が物事のやり方を統一するという規定性が、大きなアドバンテージをもたらしている。

     もう一つが王室です。今のエリザベス女王は、権威を持った厳かなイギリスのイメージを60年以上にわたって体現してきた。王室関係者は世界中を走り回り、国内でも小さな式典や除幕式にまで顔を出し、スピーチする。コモンウェルスの国民のレベルにまで下りて積極的に対話している。そこには、積極的にアピールしなければ、国民に存在感を認められないという危機感があるのだと思います。最近の中国との関係づくりにも王室はフル活用されています。

     一方で、最大の地主として受け取る膨大な地代を投資して(もう)けるというような資本主義的なところもあり、その稼いだ金をまた国民との対話に使っている。

     イギリス王室が醸し出す権威や華やかさは、アメリカの大統領がいくら頑張っても作り出せない。伝統や歴史に基づく支配といってよいでしょう。イギリスは、そうしたイメージの作り方がうまいんです」

    今も終わらない帝国

    • 「イギリス帝国の原点はアイルランドとの関係にある」と語る秋田教授
      「イギリス帝国の原点はアイルランドとの関係にある」と語る秋田教授

     秋田教授の話「ギリシャの経済危機やフランスのテロ、『イスラム国』の台頭と大量の移民の流入によって、ヨーロッパは騒然としています。これが過去のいつの時代に近いのかと考えてみても、ちょっと思いつかない。戦争はこれまで国と国との戦いでしたが、『イスラム国』は国家ではなく一種のテロ組織。敵の形がはっきりみえないカッコ付きの戦争です。イスラム教とキリスト教という宗教に基づいた根本的な価値観の違いをもった争いというのは、中世の十字軍の戦いにまでさかのぼります。

     EUに残るかどうかの国民投票を行うとしていますが、どういう意図でもって問おうとしているのか、いまひとつよくわからない。イギリスは経済的な面でもヨーロッパ大陸諸国と一体化しており、EUとの関係を抜きにして存続はあり得ない。そこでノーという結論が出たとしても抜けられない状況にある。いくらヨーロッパの状況が混沌(こんとん)としているからといって、キャメロン首相に離脱する意思があるとは思えません。国民投票は、EUに改革を迫りながら国民に関心を持ってもらい、国内統合の力を強める手段として使われるのかもしれません。

     イギリスはいつ帝国になったか。それははっきりしませんが、アイルランドに植民が進んだ中世の頃から、自らの領域を超えて力による支配が目指されました。ブリテン島からアイルランドや幾つかの島々に入植をはじめたことが、後に大西洋を渡って北米、カリブ海、インドへと遠征していく前の、訓練場になった。イギリスの帝国としての原点はアイルランドとの関係にあるように思います。

     では、イギリスはいつ帝国でなくなったか。地中海入り口のジブラルタルや、インド洋のディエゴガルシア島など、イギリスは今も海外領土を存続させています。戦略上の要衝であるジブラルタルはスペインから返還を求められていますが、応じていません。ディエゴガルシア島には米軍基地が建設され、アメリカの軍事戦略に組み込まれています。ケイマン諸島のようにタックスヘイブンとして知られるところもある。何で海外領土を持っているかといえばメリットがあるからでしょう。私は今もイギリス帝国は終わっていないと思います」

     ※アイルランドについてもっと知りたい方は、ケルトへの旅(1)…ハロウィーンだれのためをご覧ください。

     

    プロフィル
    秋田茂( あきた・しげる
     1958年生まれ。81年に広島大学文学部史学科卒業。大阪外語大助教授をへて、大阪大文学研究科世界史講座教授。『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』で2013年度読売・吉野作造賞受賞。著書に『イギリス帝国とアジア国際秩序』(名古屋大学出版会)、編著に『パクス・ブリタニカとイギリス帝国』(ミネルヴァ書房)。

     

     (メディア局編集部 小坂剛)

    • 『大英帝国衰亡史』(中西輝政著、PHP研究所)
      『大英帝国衰亡史』(中西輝政著、PHP研究所)
    • 『物語 イギリスの歴史』(中公新書、君塚直隆著)
      『物語 イギリスの歴史』(中公新書、君塚直隆著)


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    連載「酒都を歩く」(英国編)(ぶりてん数寄)が本になりました。

    • 『酒場天国イギリス』(中央公論新社)
      『酒場天国イギリス』(中央公論新社)


    ◆日本の居酒屋を舞台にした過去の連載企画「酒都を歩く」をまとめた『あの人と、「酒都」放浪 ― 日本一ぜいたくな酒場めぐり』(中央公論新社)はこちらから

    2016年01月27日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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