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    住まいに関する特集コーナーです。

    分譲マンション 終の住み家

    老朽化対策が課題

    • 「宮益坂アパート」は周囲でもひときわ目立つ高さだった(1955年、渋谷宮益商店街振興組合提供)
      「宮益坂アパート」は周囲でもひときわ目立つ高さだった(1955年、渋谷宮益商店街振興組合提供)
    • 2020年の東京五輪を控え、東京湾岸エリアでは超高層マンションが相次いで建設されている(東京都中央区で)
      2020年の東京五輪を控え、東京湾岸エリアでは超高層マンションが相次いで建設されている(東京都中央区で)

     1953年に東京都が渋谷区で分譲した「宮益坂アパート」は、戦後初の分譲マンションとされる。

     店舗や事務所も入る11階建て。2DKの間取りで価格が当時、60万~100万円と、当時の給与所得者の平均年収の4~6倍に相当し、収入に余裕がなければ入居は難しかった。

     エレベーターが2基あり、東京の新名所として雑誌が「ブルーの制服をつけたエレベーターガールの手で運転されている」と取り上げ、高級なサービスや新しい設備が注目を集めた。

     民間も分譲を手がけるようになる。56年に東京都新宿区で売り出された「四谷コーポラス」はその先駆け。5階建てで28戸。3LDKの間取りで価格は230万円と、やはり「高根の花」だった。いずれの建物も現存している。

     木造アパート、賃貸の団地……。戦後の住宅難を解消するために様々な集合住宅が造られた。50年代に入って、朝鮮戦争の特需などで景気が上向くと、高級志向のマンションも分譲され始めた。

     60年代になると、民間の参入が増えたが、一般の人が簡単に買えるものではなかった。マンションの歴史に詳しい住宅評論家の村井忠夫さん(83)は話す。「マンションという呼び名は当時、一般的ではなく、『コーポラス』や『アビタシオン』『レジデンス』とも呼ばれ、富裕層に向けて、欧米の洗練されたイメージを盛んにアピールした」

     「広辞苑」に「マンション」という言葉が登場するのは69年。その意味は「ホテル風の高級アパートの称」だった。

     分譲マンションは、戸建てと比べ、所有形態も大きく異なった。住民は各自の住戸を所有し、敷地や建物本体などを住民同士で共有。マンションの憲法とも言える区分所有法が施行されるのは63年だ。

     70年には、住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)がマンションを買う人への融資を始め、購入層が広がった。当時、公庫職員だった村井さんは「ローンを組んで買えるようになり、あこがれのマンションが身近な存在になったと思いました」と振り返る。

     それに合わせるように「ファミリータイプ」と呼ばれる家族向けの物件が増え、販売戸数が急増。高層化も進んだ。76年には現在のさいたま市に、高さ60メートルを超え、21階建てのタワー型マンション「与野ハウス」が登場。その後、東京湾岸などに相次いで建った超高層物件の先駆けとなった。

     もっとも、90年代以降、築30年を超えるマンションが増え、建物の老朽化対策の必要性が指摘されるように。15年に1回程度の大規模修繕の計画、耐震改修など、管理組合が抱える課題も増えた。

     不動産調査会社「東京カンテイ」によると、全国の分譲マンションの戸数は、2014年末時点で約664万戸と、全世帯の約1割。特に首都圏では約2割を占め、「ついの住み家」にする人も多い。国土交通省の13年度の調査によると、「永住するつもりである」と答えたマンション住民が約52%で、1980年度の約22%から大きく伸びた。

     高度経済成長期、戸建てまでの仮住まいだったマンションが、生活の場として大きな位置を占めるようになっている。(おわり)

    (西内高志が担当しました)

    2015年02月21日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

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