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    情緒あふれる坂に秘められた歴史と物語を掘り起こしていきます。

    作曲家・船村徹が人情にふれた宮益坂(前編)

    • 「戦争に負けたけれど、まだまだ日本人のよさ、人情が残っていた時代でした」と話す船村徹
      「戦争に負けたけれど、まだまだ日本人のよさ、人情が残っていた時代でした」と話す船村徹

     「戦後間もないころの東京は、どこも焼け野原で寂しいものでした。ある日、バンド仲間のドラマーと夜遅く、新宿の『ホームラン軒』というお店でラーメンを食べて、2人で駅のほうに向かって歩いていたときのことです。2人で歩いていると、ドラマーが「あちい」と言って、お尻を押さえて、ぴょこんと飛び上がったのです。

     当時の新宿では、暴力団同士の縄張り争いが激しくて、ピストルでの撃ち合いがよく起きていて、その流れ弾に当たったのですが、飛び上がる様がほんと漫画に出てくる光景そのままでした。『漫画っていうのは、大したもんだなぁ』と妙に感心した覚えがあります」

     こう当時を振り返るのは、作曲家の船村徹だ。これまで手がけた曲は、5000以上。出世作の春日八郎「別れの一本杉」を始め、「東京だョおっ母さん」「王将」「風雪ながれ旅」「兄弟船」「矢切の渡し」など、代表作を数え上げると指が何本あっても足らない。まさに戦後の歌謡曲の歴史を象徴する、日本を代表する作曲家だ。長く日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長を務め、平成20年(2008年)には、文化功労者に選ばれた。栃木県の名誉県民でもあり、今年4月には日光市に「船村徹記念館」がオープンした。

    スパイクがなくて巨人の入団テストに落ちる

     昭和7年(1932年)、当時の栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町船生)に生まれ育った船村は、父親が獣医師で、比較的裕福な家庭だったこともあり、小さいころから楽器に親しみ、小学生のときにトランペット、中学生のときにギターをマスターした。小学4年生のときに、NHKの全国放送でトランペットを独奏したこともある。

     音楽の道に進むきっかけとなったのは、本人いわく「理科とか数学とかは、教科書を見ると震えがくるほど苦手だった」から。「周りの同級生のように、大学には進学できないな」と思っていた船村に、ある友人が音楽学校の入学案内を渡してくれた。宇都宮市内のレコード店で立ち読みした音楽関係の書籍に、「ドレミファがわかれば、作曲家になれる」という文章があったことを思い出し、「音楽の道に進もう」と心に決めた。

     ところが、東京・雑司が谷の東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進学してすぐ、船村は挫折する。

     「栃木の山の中から出てくると、東京の人間がやたら立派に見えたのです。みんな東京弁を話しているのに、私は栃木弁ですから。それで、『これでは音楽の世界でやっていけない。やはり(好きな)野球の世界で生きていったほうがいいのでは』と思い、ジャイアンツの入団テストを受けに行ったのです。

     高校時代はキャッチャーで、当時のノンプロ、いまでいう社会人野球のチームから誘いがくるくらいの実力でした。ですから、守備とかスローイングのテストは全部合格だったのですが、ランニングで失敗して不合格になってしまった。音楽の道に進むと一度決めたので、裏に(びょう)のついた本格的なスパイクを処分してしまい、運動靴で走ったところ、最後のサードベースを回るところでスリップしてバランスを崩し、タイムをロスしてしまったのです。後でコーチの人から『次はちゃんとスパイクを持って来いよ』と言われました」

    100万円のピアノを出世払いで入手

    • 坂下から見上げた宮益坂
      坂下から見上げた宮益坂

     ちょうどその頃、音楽学校で知り合ったのが、のちに作詞家として船村と名コンビを組むことになる高野公男だった。高野は茨城県の出身で、故郷が隣同士ということで意気投合、「作詞・高野、作曲・船村」のコンビで、「将来、日本のレコード界を背負って立とう」と2人で語り合うまでの仲になる。

     間もなく高野は学校を辞め、新宿のキャバレーで働き始めるようになり、船村はギターの流しやキャバレーのバンドマスターをしながら、デビューの時期をうかがう。そのうち大手のキングレコードへの出入りの機会を得て、単発ながら2人の作った歌がレコード化されるようになるのだが、あともう少しで専属契約、というところで、事態は暗転する。 二日酔いでレコーディングに立ち会った船村が、トランペット奏者と言い合いになり、結果レコーディングはキャンセル。それで出入り禁止になってしまったのだ。

     高野と船村は、船村が持っていたピアノを売り払い、そのお金を元手に「新進作曲家・船村徹と東京楽団」なるバンドを結成し、茨城にドサ回りに出るが、興行師に(だま)され、お金だけ持ち逃げされ、会場は閑古鳥。あげくの果て、ギャラの支払いでバンドのメンバーと喧嘩(けんか)になり、警察に傷害の疑いで呼ばれ、一晩留置された。取り調べを担当した刑事が同じ栃木出身で、間に立ってうまく仲裁してくれたのは不幸中の幸いだった。

     「作曲を()めるわけではないので、ピアノがないと困ります。それで高野と2人で、渋谷の宮益坂を歩いていたとき、坂を上ったところに『稲葉ピアノ』という、当時としてはかなり大きなピアノ店があり、そこに入って『どれか1台、欲しいものだな』と2人して眺めていたのです。

     すると、奥のほうから恰幅(かっぷく)のいい、中年の男性が出てきて、『きみたち、もしかして栃木か茨城の出身では?』と聞くのです。あとでその人が、社長だとわかるのですが、私が『はい、栃木の船生村です』と答えると、『そうか、僕は那須なんだよ。ピアノが欲しいなら、どれでも好きなのを持っていきなさい』。それで、お金がない、ということを伝えると、『顔を見るだけでわかるよ。出世払いでいいから』と言って、次の日、ピアノを1台届けてくれたのです。いまの金額にすると100万円くらいのピアノでした。そのピアノのおかげで、ヒット曲が次々生まれるようになった。『別れの一本杉』もそのピアノで作曲したのです」

    日本人のよさ、人情が残っていた時代

     「別れの一本杉」の発売が、昭和30年(1955年)12月。そのころすでに、高野は当時不治の病とされていた結核を患っていた。船村は、紆余(うよ)曲折あって、結局、コロムビアレコードの専属として、作曲家デビューを果たす。年が明け、「別れの一本杉」が本格的にヒットし始め、高野の生涯と曲の詞をモチーフにした、歌と同タイトルの映画の製作が決まる。船村は、金曜の夜行で高野が入院する水戸の病院に見舞いに出向き、週末滞在して月曜の朝に東京に戻る生活を続ける。高野が亡くなったのは、昭和31年9月8日。享年26歳。船村が24歳のときだった。

     「稲葉ピアノ」の社長とは、その後、社長が亡くなるまで付き合いが続いた。船村は、日の目を見なかった曲のために、自分の誕生日にあたる6月12日に「歌供養」という催しを毎年開いている。その催しに、社長は千代紙で折った爪楊枝(つまようじ)を入れる袋を何百も手作りして贈ってくれたという。

     「戦争に負けたけれど、まだまだ日本人のよさ、人情が残っていた時代でした。『困っている人がいれば助ける』というのは、日本人が持つDNAといいますか、先祖伝来のものだったのではないでしょうか。残念ながら、最近は日本人も随分変わってきました」

     船村は今年3月、23歳で戦死した12歳年上の兄・健一の思い出を綴った「兄の戦争」(潮書房光人社刊)を上梓(じょうし)した。同書では、寝床でハーモニカを吹いたあと、兄が船村に向かって、ある言葉を残す場面がとても印象に残る。

     兄・健一、高野公男、稲葉社長、そして高野のあとにコンビを組んだ作詞家の星野哲郎……船村を支えた人のうち、だれか一人でも欠けていたら、名曲の数々は世に出なかったことだろう。

     (続く、文中敬称略)(メディア局編集部 二居隆司)

     

    2015年08月14日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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