<速報> フリーアナウンサーの小林麻央さん死去…34歳
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    プロレス史に残る事件・出来事の真相に迫ります。

    馬場さんに誘われ、全日本旗揚げ参加…百田光雄<3>

    「オヤジが泣いてるぞー」とヤジられる

    • 「海外ではトペをやったことがなかった」という百田(左)(本人提供)
      「海外ではトペをやったことがなかった」という百田(左)(本人提供)

     僕が「プロレスラーになりたい」と言った時、日本プロレス代表の芳の里さんは「うーん」とうなって、「よく来た、頑張れよ」という感じではありませんでした。

     僕の体が小さいということもあるでしょうが、扱いづらいというのが大きかったのだと思います。何と言っても芳の里さんをはじめ、幹部やトップレスラーは父の弟子だった人ばかりで、僕はみんなを「ちゃん」づけで呼んでいたのです。芳の里(淳三)さんは「淳ちゃん」、猪木(寛至)さんは「寛ちゃん」という感じで。僕は「みっちゃん」と呼ばれていました。

     もちろん、僕はプロレス入りが決まった日から「芳の里さん」などと、「さん」づけで呼ぶようにしましたが、トップの連中の呼び方が「みっちゃん」のままだったので、父の教えを受けてない少し上の先輩たちも「みっちゃん」と呼ぶようになり、「百田!」って呼びつける人間は1人もいませんでした。

     たぶん、みんなは僕が厳しい練習についてこれなくて、すぐにやめるだろうと思っていたのだと思います。しかし、僕は父のスパルタ教育で鍛えられているから、負けん気だけは強いのです。僕が入ってから少しして、カール・ゴッチさんがコーチとして日本プロレスに入ってきました。ゴッチさんは練習に対してものすごくシビアで、能力はあるのにいいかげんにやるやつより、能力はなくても最後までがんばるやつをかわいがる。僕はそういうタイプだから結構かわいがってくれましたね。

     2年目に入ったころ、大木金太郎さんに連れられて韓国で試合をしました。それが最初のシングルの試合です。あのころ韓国のレスラーはあまりレベルが高くなかったので、僕は勝ったのじゃないかな。昔は試合数が多いから、よく覚えてない(笑)。

     その後しばらくして、日本でもデビューしたのですが、対戦相手は先輩が多く、体力も技術も足りないのでなかなか勝てず、お客さんから「オヤジが泣いてるぞー」とヤジを飛ばされたこともありました。

    日本プロレス退社、1人で練習

     <徐々に実力を蓄えていった百田だが、日本プロレス入りから4年足らずで退社してしまう>

     父が亡くなった後に1年ほど、継母が日本プロレスの社長をしていて、社長を退くときに、兄をいずれ社長にするという約束があったのです。だけど、いつまでたっても何の音沙汰もないので、僕は芳の里さんに「あの話はどうなってるんですか」と聞いたのです。まだ、若手のペーペーだったけど百田家の話なので。そうしたら芳の里さんが「知らない、そんな話覚えてない」ってとぼけたのです。僕もけっこう勝ち気なんで「忘れたとか、知らないで通る話じゃないでしょ。そんなことじゃ代表やってる資格ないですよ。こんな会社、やめさせてもらいます」って言ったのです。

     ただ、この件以外でも、あの会社はダメだと思っていました。テレビ局が二つも放送していたりして、ものすごく(もう)かってはいたのですが、ある幹部は会社の金で取り巻きを引き連れて飲み歩いていたし、別の幹部は横領しているとか、してないとかという(うわさ)があったり。僕がやめる少し前には猪木さんがやめています。猪木さんが会社乗っ取り計画をたてて、それを途中でばらした人間がいて、という感じで。そういう人間関係を見ていて僕は「いやー、ひどいな」と。

     会社をやめたあと、リキアパートのフロント係やプールの監視員をしながら、1人でトレーニングを続けていました。もう、前は全然見えてないのだけど(笑)、プロレスをやりたいと。日本が無理なら海外に行こうかな、とも考えていました。

     7か月ほどしたころ、ジャイアント馬場さんが僕のところにやって来て「今度、新しいプロレスの会社を作るんだけど、一緒にやらないか」って言うのです。うれしくて、「はい!」って答えました。馬場さんとしては「力道山」という看板がほしかったのでしょう。百田家を自分たちが世話をすることで、日本プロレスの放送をしていた日本テレビが馬場さんの方につきやすくなるという計算もあったのだと思います。

    日本初のトペ・スイシーダ

     <全日本プロレスの旗揚げに参加した百田は1974年(昭和49年)からメキシコ、アメリカに約2年の海外遠征。日本武道館で行われた力道山の13回忌追悼興行で凱旋(がいせん)し、メキシコ仕込みの飛び技「トペ・スイシーダ」を国内で初めて披露した>

    • 「体は小さかったが負けん気だけは強かった」(撮影 高梨義之)
      「体は小さかったが負けん気だけは強かった」(撮影 高梨義之)

     実はトペは海外にいたときは1回もやってないのですが、試合でタッグを組むマシオ駒さんが「トペやんなきゃダメだよ」と言うのです。父の追悼興行に凱旋したのだから、お客さんの印象に残る技を見せなければいけないと。駒さんはメキシコに行ったことがあってトペを知っていたのです。

     僕は「やったことないですよ」って言ったのですが「やってみろ、みっちゃんならできるから」って。トペはロープの間をすり抜けてリングの外に飛び出して相手に体当たりする技ですが、僕はプールに浮かべた浮き輪の穴の中に飛び込むのがうまかったので「確かに出来るかもしれないな」と思いました。

     トペは道場では練習できないのです。やるほうも、やられるほうも危険なので。だから、ぶっつけ本番でやったのです。対戦相手の米村勉さんが大相撲出身で横幅があったこともあり、うまく当たることが出来ました。でも、僕はテンションがすごく上がっていて、お客さんの反応を見る余裕はなかったですね。

     あのとき、リングの周りには何人もカメラマンがいたのですが、初めて見るトペについていけず、誰も写真を撮れていませんでした(笑)。

     (続く、文中一部敬称略)(聞き手・構成 メディア局編集部 伊東謙治)

    <百田光雄=ももた・みつお>
     1948年、東京都港区出身。173センチ、92キロ。68年に日本プロレス入りし、72年に全日本プロレス旗揚げに参加。長く第一試合を担当し、「6時半の男」として人気を呼ぶ。89年には全日本プロレスの世界ジュニア・ヘビー級王座を獲得し2度防衛。2000年にノアに移籍し、副社長に就任。09年にノアを退団し、フリーのレスラーに。66歳の現在もインディー系団体などのリングに上がっている。父は日本プロレスを創設した力道山。兄・義浩(故人)も全日本プロレスでリングアナやレスラーとして活躍し、息子・力も昨年12月にプロレスデビュー。
    2014年12月10日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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