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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    鍋島直正「器械戦争の時代となりたり」

    洋式兵器 佐賀藩主の功(久米邦武『鍋島直正公伝』より)

    • 鍋島直正が再建した佐賀城本丸御殿を復元した「本丸歴史館」。藩の公式行事が行われた「外御書院」は、45メートルも続く長い廊下を含めて320畳の大広間となる
      鍋島直正が再建した佐賀城本丸御殿を復元した「本丸歴史館」。藩の公式行事が行われた「外御書院」は、45メートルも続く長い廊下を含めて320畳の大広間となる

     地方を訪れると、地元では尊敬され、業績も立派なのに、全国的な知名度が低い歴史上の人物に、しばしば出くわす。

     例えば、佐賀藩の最後から2番目の藩主、鍋島閑叟かんそうこと直正だ。明治維新と新政府の中核をなした諸藩を「薩長土肥」と呼ぶが、ここに「肥」こと肥前佐賀藩が入っているのは、閑叟の力が大きい。

     「上野の彰義隊を打ち砕いたアームストロング砲など、佐賀藩の軍事力により官軍は戊辰戦争で優位に立てた。明治政府の中枢に佐賀勢が入ったのは、その評価でしょう」と、杉谷昭・佐賀大学名誉教授は話す。

     幕末の佐賀藩は、軍事力と、それを支える工業技術において、他を引き離して日本の最先端にいた。それを先導したのが閑叟だ。

     長崎警備の任を通じて西洋事情に通じていた閑叟は、早くから西洋の海軍の脅威を感じていた。後に「鍋島直正公伝」に持論として「当今は器械の精鋭を競ふ時勢にて(中略)器械戦争の時代となりたり」と記された通り、洋式兵器の導入と技術開発に総力を挙げた。海外から蒸気船や銃砲を購入する一方で、反射炉を作って大砲の製造に取り組んだ。

    • 動画は写真をクリック
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     「徳川幕府が黒船に備えて品川に台場(砲台)を築いた時、大砲の製造は佐賀藩に依頼された。当時、大砲を作れるのは佐賀だけだったんです」。鍋島家に伝わる品々を展示する徴古館の富田紘次学芸員は話す。

     日本中が「佐幕か勤王か」「攘夷じょういか開国か」と思想闘争に明け暮れていた時期に、佐賀は実用的な物作りと人づくりに取り組んでいたのだ。

     急進派の若い藩士には、大隈重信や江藤新平ら脱藩者も出たが、閑叟は寛大に接し、佐賀藩は内紛とは無縁だった。西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬らは、時には藩に逆らって維新の英雄となったが、佐賀藩では「藩内の統制が取れていたために、急進派が動けなかった面もある」と杉谷名誉教授は見る。

     中央の政争に深入りせず、藩がなくなるまで平和が保たれた佐賀は、物語性が希薄なためか、映画や小説に描かれることが少ない。とすれば、閑叟の知名度が低いことは、むしろ名君の証しなのかもしれない。(文・片山一弘 写真・安川純)

    鍋島直正(閑叟) (1814~71)
     佐賀藩の第10代藩主。数え年17歳で藩主となる。窮乏していた藩財政を立て直し、長崎防衛のため洋式軍備や産業開発を促進し、「蘭癖大名」とも呼ばれた。医療や教育の改革も推進した。明治政府では初期に議定や蝦夷開拓総督などの要職に就いた。「鍋島直正公伝」は佐賀藩出身で閑叟に仕えた歴史学者の久米邦武が執筆し、中野礼四郎がまとめた大著。佐賀藩出身で総理大臣を2度務め、早稲田大学を創設した大隈重信が監修した。

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    2014年07月14日 09時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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