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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    伊能忠敬「功成り名とげて身退くは天の道」

    隠居後に望外の喜び

    功成り名とげて身退くは天の道(国宝「伊能忠敬関係資料」の中の書状 1813年)

    • 小野川を巡り、伊能忠敬旧宅前に戻ってきた小舟。忠敬はここから「第二の人生」にこぎ出したのだろうか(千葉県香取市で)
      小野川を巡り、伊能忠敬旧宅前に戻ってきた小舟。忠敬はここから「第二の人生」にこぎ出したのだろうか(千葉県香取市で)

     「坂東太郎」の雄大な流れを大通りに見立てれば、支流の小野川はさしずめ小さな路地。小舟に乗ってこの路地を遡ると、両岸に古い町並みが現れる。千葉県香取市佐原は、利根川の舟運で栄えた往時の華やぎを、いまに伝えている。

     古い町並みの一角に、伊能忠敬(1745~1818年)の旧宅がある。土蔵造りなのは、伊能家が酒造や米の売買、舟運などを手がける商家だったから。全国を歩き、我が国最初の実測日本地図を作製した忠敬だが、50歳を前に隠居するまでは、商家の当主、また名主として、佐原の発展に尽くした。

     現在の千葉県九十九里町に生まれた忠敬は、17歳で伊能家に婿入りした。商才にたけていたらしく、20代後半からの約20年間で伊能家の総収入を3倍以上に増やしている。

     民衆のためにも心を砕いた。天明の飢饉ききんの際は関西から米を買い付け、窮民に配布。余った米は江戸で売りさばいた。堤防修築などの功績が認められ、帯刀を許される。

     家督を長男に譲った後は、江戸に出て趣味に生きる。興味があった天文学と暦学を学ぶべく、暦をつくる幕府の役所に勤めていた高橋至時よしときに弟子入り。師の勧めなどもあって、日本地図作製のために測量の旅に出た時は、55歳になっていた。

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     「功成り名とげて身退くは天の道」

     全国を巡る旅も終盤にさしかかり、68歳になった忠敬は、長崎の対馬から長女に宛てた書状の中で、自らの生涯を振り返っている。親の命で婿となり、好きな学問をやめ、家業や地域の発展に努めたとし、隠居後にこれまで例のない国中の測量を仰せつかったのは天命だった、としている。

     伊能忠敬記念館の山口真輝学芸員(32)は、「測量は名誉のためにやったのではないと、別の書状で明かしています。好奇心が、大きな功績につながったのでしょう」と語る。

     小さな川からこぎ出した舟は、大海に通じていた。何かを始めるのに、遅過ぎることはないのかもしれない。「余生」だと思っていた第二の人生に、望外の喜びが待っていることもあるのだから。(文・増田真郷 写真・林陽一)

    伊能忠敬関係資料
     幕府の測量隊を率いて、1800~16年に日本全国を巡った伊能忠敬が残した地図、文書、記録、書状、測量器具など2345点の資料。香取市が運営する伊能忠敬記念館が所蔵している。忠敬の地図づくりの方法を具体的に示し、生涯で成し遂げた業績を多面的に伝えていることから、2010年に国宝に指定された。資料の一部は、同館に展示されている。小野川を挟んで同館の対岸にある伊能忠敬旧宅は国の史跡で、見学することができる。

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    2017年01月10日 10時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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