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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    ジャイアント馬場「プロレスの練習は…」

    王道歩む その日まで

    プロレスの練習は、ぶっ倒れてから始まるものだと知った(「王道十六文」より)

    • ジャイアント馬場が生まれ育った三条は、古くから「鍛冶の町」として知られている。今も戦前の面影を残す家々に、激しく雪が吹き付ける(新潟県三条市で)
      ジャイアント馬場が生まれ育った三条は、古くから「鍛冶の町」として知られている。今も戦前の面影を残す家々に、激しく雪が吹き付ける(新潟県三条市で)

     早朝。切り妻造りの町家が並ぶ新潟県三条市を、野菜や果物をいっぱいに載せたリヤカーを引いて小学生が歩いていた。プロレスラー、ジャイアント馬場の少年時代である。実家は青果商で、市内外で開かれる朝市に毎朝、テントの店を出していた。時には片道10キロ以上の市場まで、リヤカーを自転車に付けて引っ張った。雪道はソリで引いた。

     小学5年生から、高校を中退して巨人軍に入団するまでの7年間、毎日、登校前にリヤカーを引いたという。前三条市長の高橋一夫さん(79)は、「当時の子供はみんな、親の手伝いをしてから登校した」と話す。馬場とは中学の同級生で、席も近かった。体は大きいが、優しく、穏やかな人だったと記憶している。

     三条実業高校野球部のエースだった馬場は、1955年、巨人軍に入団。主に二軍の投手として活躍した。練習ではひたすら走らされたが、苦ではなかった。「7年間、1日も休まず重いリヤカーを引いてきた」との自信があった。その馬場でさえ音を上げたのがプロレスだ。

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     けがで野球を断念し、60年にプロレスに転向した馬場を待っていたのは、力道山道場での「足の運動3000回」。しゃがんでは立つスクワット(屈伸)だが、倒れると水をかけられまた倒れる繰り返し。「プロレスの練習は、ぶっ倒れてから始まるものだと知った」。それでも耐えたのは、野球で成功出来ず「この世界で男になれなけりゃ、もう死んでも郷里に帰れない」と思ったからと自伝にある。

     高橋さんは東京で2度、馬場に会った。最初は東京の大学に通っていた時。巨人の二軍にいた馬場が、電車の中で網棚に肘を置いて顔を隠していた。話しかけても、ボソボソ答えるだけだった。次は三条に戻ってから、昭和40年代中頃だった。所用で上野駅に行くと人だかりが出来ていた。列車の中に馬場がいた。サインに応じる堂々たる姿に、「自信がつくと、こうも人は変わるのか」と驚いた。リヤカーを引き、走り、屈伸し、ひたすら脚力を鍛えた馬場は、いつしか、「世界の馬場」になっていた。(文・小梶勝男 写真・佐々木紀明)

    ジャイアント馬場
     プロレスラー。本名・馬場正平。1938年、新潟県三条市生まれ。16文キックなどスケールの大きなファイトで国民的スターとなった。72年、全日本プロレス設立。98年、国内公式戦5758試合出場達成。99年、61歳で死去。公称・身長2メートル09、体重135キロ、足のサイズ32センチ。その生涯は、自伝「ジャイアント馬場 王道十六文」(日本図書センター)、柳澤健「1964年のジャイアント馬場」(双葉社)、広尾晃「巨人軍の巨人 馬場正平」(イースト・プレス)などに詳しい。

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    2017年03月21日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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