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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    織田作之助「法善寺は「大阪の顔」なのである」

    枕元に立った憧れの男

    法善寺は「大阪の顔」なのである(「大阪の顔―法善寺―」より)

    • 「法善寺横町とよばれる露路は、まさに食道である」。「大阪の顔」に登場する「正弁丹吾亭」の文字が打ち水で濡れた石畳に映る(大阪市中央区で)
      「法善寺横町とよばれる露路は、まさに食道である」。「大阪の顔」に登場する「正弁丹吾亭」の文字が打ち水で濡れた石畳に映る(大阪市中央区で)

     脳卒中で死線をさまよっていたとき。真夜中、病院のベッドで意識を取り戻すと、たばこの臭いがした。薄目を開けると、自分をのぞいている男が見えた。髪の長い、青白い顔。「あんじょう頼むよってにな」。男は言った。大阪弁で、よろしく頼むという意味だ。たばこを吸う独特のポーズ。「あ、オダサクだ」と思ったが、そこで意識が途切れた。「確かに見ました」と、井村身恒みつねさん(64)は言う。

     オダサクとは、「夫婦めおと善哉ぜんざい」など、大阪を舞台にした小説で知られる作家・織田作之助の愛称だ。井村さんは当時、高校の社会科教師で、織田に関連する映画を集めた「オダサク映画祭」を開こうとしていた。2001年の春だった。

     興味を持ったきっかけは、かつて織田が自分の地元・大阪府堺市に住んでいたと知ったことだった。作品を読むと、大阪・難波の法善寺の周辺など、いかにも大阪らしい風景が、生き生きと描かれていた。小説やエッセーの舞台を歩くうちに、どんどんのめり込んでいった。

     脳卒中の後遺症は、左半身のマヒだった。医者からは、一生車いすを覚悟するよう言われた。映画祭は、中止の話が出た。だが、どうあってもやり遂げたかった。

    • 動画は写真をクリック
      動画は写真をクリック

     何とか、立ち上がった。手すりにしがみついて歩いた。病院の階段を毎日、上り下りした。1か月で歩けるようになったのは、奇跡的な回復だった。「必死でリハビリした。映画祭がなかったら、あんなに頑張らなかったと思います」。その年の11月、1回目の「オダサク映画祭」が開かれた。その後、井村さんは、「オダサク倶楽部くらぶ」代表となり、織田に関係するイベントや、本の出版を続けている。11年には、活動に専念するため高校を辞した。

     織田は「私の文学修業は大阪勉強ということに外ならない」と書いた。その織田が「『大阪の顔』なのである」と言い切った、法善寺。井村さんは今も、つえをつきながら周辺を歩く。「かろうじて路地には、昔の雰囲気が残ってますね」。「織田にもらった命」を楽しみたい。そんな気持ちで織田を追い続けている。(文・小梶勝男 写真・佐々木紀明)

    織田作之助
     1913年、大阪市生まれ。「俗臭」「世相」「競馬」など、主に大阪を舞台に市井の人々を活写した小説を数多く発表。戦後は坂口安吾、太宰治とともに「無頼派三羽ガラス」と呼ばれ、人気作家となるが、47年、結核により33歳の若さで死去。代表作「夫婦善哉」は映画やドラマにもなった。随筆「大阪の顔」はオダサク倶楽部編「織田作之助の大阪」(平凡社コロナ・ブックス)に再録されている。またほぼ全文が、インターネットの青空文庫で公開されている随筆「大阪発見」の後半に収録されている。

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    2017年06月19日 10時07分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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