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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    島尾敏雄・ミホ「なんとかして御目にかゝらせて…」

    特攻出撃覚悟の逢瀬

    八月十三日真夜 ミホ   なんとかして御目おめにかゝらせて下さい。決してとり乱したりいたしません。
    八月十五日   敏雄   元気デス。(「愛の往復書簡」より)

    • 星空に天の川が浮かぶ加計呂麻島の夜。島尾ミホ「その夜」によると、終戦前の1945年8月13日も星がきれいな夜だったという(鹿児島県瀬戸内町で)
      星空に天の川が浮かぶ加計呂麻島の夜。島尾ミホ「その夜」によると、終戦前の1945年8月13日も星がきれいな夜だったという(鹿児島県瀬戸内町で)

     加計呂麻かけろま島は24時間眠らない。暗くなるとコホーッコホーッと鳴くリュウキュウコノハズクなどの生き物がそこかしこにいる。72年前、眠れない夜が続く男と女が島にいた。特攻艇「震洋」の隊長として島に着任した島尾敏雄、27歳。命令一下、突撃死する運命だった。女は島唄を歌う美しい教員ミホ、25歳。文学好きの2人は、すぐに恋に落ちた。

     〈死ぬ時、はどうしても御一緒に。〉〈ミホ、気が変になつてしまひました。たゞ「あなた」だけ〉

     和紙の切れ端などに切々とつづるミホ。隊長も<ぼくは弱虫ですが任務とmihoがあるから強い>と送った。限りある生に愛は燃え、ミホは、月明かりを頼りに浜を歩き2時間以上、荒磯で手足が傷つくのも愛の証しと感じながら密会に急いだ。

     お粗末な現実が運命を握っていた。長さ約5メートルの「震洋」はベニヤ板のモーターボートに爆弾を搭載した粗製品で、別の隊では整備中に爆発、隊長らが死亡している。自身がミホが信じるような島の守り神ではないことを〈弱虫〉は知っていた。

     1945年8月13日夜、出撃命令は下り、死を覚悟した“最後の逢瀬おうせ”を基地の近くで交わす。〈取乱したりいたしません。〉と書いたミホだが隊長が去ると、足跡の残る砂を半狂乱になり胸元に押し入れた。2日後に終戦、死は遠のき、先行きの見えない日常が口を開けていた。この日、敏雄が送った短い書簡には、生の喜びがあふれていた。

     〈元気デス。〉

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     敗戦は、非力なのに「隊長」とあがめられた男を変えた。翌年1月の日記には〈余は昨年八月十五日に既にくだらぬものとして生き残つた〉と記す。結婚した2人に蜜月はなかった。作家になった夫の生活はすさみ、女との情事で妻に糾弾され、狂乱の日が続く。これを描く私小説「死のとげ」(78年読売文学賞)を、ノンフィクション作家、かけはし久美子さんは「戦争文学」という。戦下の異常が愛を育んだように、戦争の傷痕が結婚と文学に影を落とすからだ。

     戦後、ミホの実家も特攻基地跡も荒廃した。島の鳥獣虫魚は、この夏も元気に声を奏でていた。(文・鵜飼哲夫 写真・岩佐譲)

    島尾敏雄
     1917~86年。43年に九州帝大卒。同年海軍予備学生志願。加計呂麻島で終戦。50年、戦争体験を描く「出孤島記」で第1回戦後文学賞。77年「日の移ろい」で谷崎潤一郎賞。代表作「死の棘」(新潮文庫)。
    島尾ミホ
     1919~2007年。加計呂麻島で幼少期を過ごし、東京の女学校を卒業、島に戻る。南島での少女時代や敏雄との出会いを描く「海辺の生と死」(中公文庫)で1975年、田村俊子賞。「愛の往復書簡」は中央公論新社刊。

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    2017年08月14日 10時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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