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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    船越義珍「空手道二十訓」

    防御が即、攻めに転ずる

    空手に先手なし

    • 船越義珍は奥武山公園の松林で空手について思索したという。今は「空手に先手なし」の石碑が立ち、すぐ前のジョギングコースを多くのランナーが駆け抜ける(那覇市で)
      船越義珍は奥武山公園の松林で空手について思索したという。今は「空手に先手なし」の石碑が立ち、すぐ前のジョギングコースを多くのランナーが駆け抜ける(那覇市で)

     かつては離れ小島だった、那覇市の奥武山おうのやま公園。今は陸続きとなり、運動公園として整備されているが、往時はリュウキュウマツが生い茂っていたという。この地を愛し、雅号を松濤しょうとう(松風の音)と名付けた空手家がいた。沖縄の武術「手」を空手として本土で広め、近代空手道の父と呼ばれる船越義珍である。

     奥武山に義珍を顕彰する碑がある。刻まれた文字は「空手に先手なし」。「手」に昔から伝わる言葉だが、義珍が「二十訓」の一つに掲げて有名になった。空手家は先に手を出してはならない。表向きはそうとれるが、日本空手協会前会長の中原伸之さん(82)は「防御が即、攻めに転ずるという空手の極意」と語る。受けると同時に、一撃必殺の攻撃で相手を倒す。それはスポーツ空手にはない、武術としてのすごみでもある。

     伝説の達人たちから教えを受けた義珍は、元々は沖縄の小学校教員だった。1922年、東京で古武道体育展覧会が開かれる。義珍は沖縄県学務課に要請され上京、演武を披露。この時、空手も初めて真に海を渡ったのである。妙技に驚いた人々から教授を請われ、家族を残したまま東京で指導を続けることになる。

    • 動画は写真をクリック
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     「広く受け入れられたのは、船越先生が人格者だったからでしょう」。中原さんは言う。無一文の義珍は学生寮の3畳間に住み、寮費をまけてもらう代わり、掃除や面会の取り次ぎなど「玄関番兼庭番」をしながら空手を教えた。すでに50歳代半ば。「船越先生」を訪ねる人は、尻をからげ、庭を掃く男を誰も当人とは思わなかったという。

     それから15年ほど。全国に広がった門人たちの尽力で、東京・雑司が谷に本土初の空手道場が建設される。「松濤館」と名付けた道場を、義珍は「私の生涯の中で獲得した最も美しい『もの』」と自伝に書いている。それが一瞬で消えたのが、戦争だった。一方、沖縄も焦土と化し、帰れぬ場所となった。「私と空手は、敗戦を機に中央にとり残されてしまった」。義珍は古里の松濤の風景を再び見ることなく、88歳で世を去ったが、空手は義珍の願い通り、世界へと広まっていった。

    (文・小梶勝男 写真・吉岡毅)

    船越義珍
    1868年、沖縄・那覇の首里城近くに生まれる。家は下級士族だった。伝説の達人、 安里安恒 あさとあんこう 糸洲安恒 いとすあんこう に教えを受け、「手」、後に「 唐手 からて 」と呼ばれた沖縄発祥の秘術を習得。本土に渡り、「空手」と改名して日本中に広めた。門弟たちに修行の心得を示した「空手道二十訓」は、1930年ごろに完成したといわれている。57年死去。著書に自伝「愛蔵版 空手道一路」( 榕樹 ようじゅ 書林)、「空手道教範 復刻版」(同)など。その生涯は今野 びん の評伝小説「義珍の拳」(集英社文庫)に詳しい。

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    2017年09月25日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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