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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    藤本義一「地べたから見上げた夢」

    地べたから見上げた夢

    常に私は通天閣を仰いで自分の人生の設計図を描いていた(藤本義一の言葉「1987年」)

    • 見ようによっては人の姿に似ている通天閣の、これが頭。繁華街からエネルギーを吸い上げて立つ(大阪市浪速区で)
      見ようによっては人の姿に似ている通天閣の、これが頭。繁華街からエネルギーを吸い上げて立つ(大阪市浪速区で)

     通天閣108メートル。上って街を見下ろすか、下から見上げるか。直木賞作家の藤本義一は後者を好んだ。

     台本を手がけた舞台や映画には通天閣が登場するが、若いころ上ったことはほとんどなく、もっぱら足元の繁華街、大阪・新世界にいたらしい。塔の30年誌に「常に私は通天閣を仰いで自分の人生の設計図を描いていたことになる」と書いている。

     塔は2代目だ。明治期に建った初代は戦時中、火災で焼け解体された。新世界の商店主らがなけなしの金を集めて再建したのが「もはや『戦後』ではない」と経済白書がうたった1956年。藤本は学生だった。

     妻の統紀子さん(82)が結婚前に連れていってもらった新世界は、荒々しい労働者の街という風情だった。串カツ屋の勘定は、食べた串の数。ごまかそうと客が足元に落とした串も、店主は涼しい顔で数えていた。多少のインチキはさらりとかわす、たくましさと、おもしろさ。

     「新世界は、人生で何かをつかもうとする若い男の子が粋がって行く場所でした」

     藤本は、スリの一家や貧しい芸人長屋など、体を張って地べたに生きる人々を描いた。テレビの人気司会者になり直木賞を取っても、塔の行事に協力するなど縁は続く。99年、通天閣のロゴの揮毫きごうを頼まれたときは本当にうれしそうだったという。

    • 動画は写真をクリック
      動画は写真をクリック

     5年前に藤本が逝く。今月61周年になる塔はといえば、周囲に高い建物ができて随分小さくなった。「あべのハルカス」(300メートル)からはおもちゃみたいに見える。新世界も、今や家族連れや大勢の外国人観光客が詰めかける変貌ぶりだ。

     高みから世間を見晴らすぜいたくに慣れてしまっても、飾り気のない鉄骨の下に立てば、皆で何かを仰ぎ見た時代の気分がよみがえる。

     「アッチが大阪城です!」

     てっぺんの屋外展望台では、本業の身入りが少ない若手芸人が交代で案内に立つ。18歳で香川から来たピン芸人福神ふくがみよしきさん(27)が「暑いっす。日焼け止め塗りまくりっす」と汗をぬぐった。四苦八苦で夢に手をのばす人がこの街によく似合う。

     (文・森川暁子 写真・岩佐譲)

    藤本義一
    1933~2012年。堺市生まれ。大阪府立大在学中に、移民船に乗る家族に密着取材したラジオドラマ「つばくろの歌」で芸術祭脚本賞を取る。映画の川島雄三監督に師事し、「貸間あり」のシナリオを共作した。深夜番組「11PM」の司会を1965年から25年間務め、74年には、芸を追究するほどに破滅へと向かう落語家を描いた小説「鬼の詩」で直木賞を受賞した。1995年に阪神大震災が起きた後、被災した子供のための施設「浜風の家」設立を呼びかけ、運営を担った。

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    2017年10月01日 04時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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