文字サイズ
    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    石田比呂志「〈職業に貴賤あらず〉と嘘を言うな」

    流浪の半生 歌を命に

    〈職業に貴賤きせんあらず〉とうそを言うな
    耐え苦しみてわれは働く(1963年)

    • 石田比呂志の生家前に流れる長峡(ながお)川。長峡川大橋から河口を望むと遠浅の海が夕焼けに染まっていた(福岡県行橋市と苅田町の境界付近で)
      石田比呂志の生家前に流れる長峡(ながお)川。長峡川大橋から河口を望むと遠浅の海が夕焼けに染まっていた(福岡県行橋市と苅田町の境界付近で)

     短歌誌「牙」を主宰した歌人の石田比呂志は、少年時代から職を転々とした経歴の持ち主である。戦前は筑豊炭田で採炭に従事し、戦後は村役場の臨時職員、旅館番頭、キャバレー支配人……。40歳代半ばで熊本に暮らすまで、郷里の福岡や、東京、山口、大分などを流浪した。

     石川啄木たくぼくの「一握いちあくの砂」に出会って歌人を目指し、18歳で上京した。夢破れて帰郷してからも作歌を続け、10年余を経て再び上京。翌1963年、第9回角川短歌賞候補作に選ばれ、「小心記」30首が「短歌」5月号に掲載された。

     〈職業に貴賤きせんあらず〉とうそを言うな耐え苦しみてわれは働く

     30首の一連にあったこの歌を、長年連れ添った歌人の阿木津英あきつえいさん(67)は、「青年時代、一番苦労して辛酸をなめた頃の歌。美しい建前に全身で抵抗した」と話す。

    • 動画は写真をクリック
      動画は写真をクリック

     出身は福岡県京都みやこ小波瀬おばせ村(現・苅田かんだ町)。村長を務めて郡の有力者だった祖父の石松は、隣町の行橋ゆくはしの干拓事業に財産をつぎ込んだが志は成らず、家は没落した。石田は藩校を前身とする旧制豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学・高校)に入学したものの、素行不良のため2年生で退学処分となっている。

     「小心記」が巻頭を飾った第1歌集「無用の歌」は65年に刊行。未来短歌会の岡井隆さん(89)が石田の個性を「野武士」にたとえた序文などが収められ、華々しい。

     しかし刊行の前年、東京にいた石田は、郷里で美容院を開く遠縁の塩塚悦子さん(78)に、金の工面を頼む手紙を送っていた。「悦子ちゃん、もう五千円貸して下さい」「僕は才能など初手からない、ダメな人間なんでせうか」。短歌20首を書いた原稿用紙も添えられた。両親を早くに亡くし、石田に気遣われて育った悦子さんは、「この人、本当に駄目になる」と思ったという。はるかに上回る額を携え、勤め先のキャバレーを訪ねていった。

     歌を命とし、無頼派といわれた石田は生涯に17冊の歌集を出し、自身の著作を悦子さんに届け続けた。こんな一首もある。

     酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

    (文・佐々木亜子 写真・田中成浩)

    石田比呂志
     1930年、福岡県生まれ。59年、歌誌「未来」に入会。62年に「牙短歌会」を結成して「牙」を創刊したが、その後休刊。74年に大分県中津市で「牙」を再刊、主宰となる。翌年、熊本で暮らし始め、歌人の山埜井喜美枝との結婚生活を解消する。86年、「手花火」で短歌研究賞を受賞。2010年、生前最後の歌集「邯鄲線」を出版。11年、脳内出血のため80歳で死去し、「牙」は追悼号で終刊した。読売新聞「よみうり西部歌壇」選者。七回忌を迎えた今年、最終歌集「冬湖」が刊行された。

     続きは「読売プレミアム」で
     http://premium.yomiuri.co.jp/pc/

    2017年10月10日 09時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大手町モールのおすすめ
    帆布鞄
    PR情報
    大手町モール
    ブランディア
    アーカイブ