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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    二宮尊徳「わが道は人々の心の…」

    誠を尽くし農村再興

    わが道は人々の心の荒蕪(こうぶ)を開くのを本意とする(二宮尊徳の言葉)

    • 二宮尊徳は晩年、日光で新田開発などを手がけた。稲刈り後に雨水がたまった田んぼに、夕焼けが映える(栃木県日光市で)
      二宮尊徳は晩年、日光で新田開発などを手がけた。稲刈り後に雨水がたまった田んぼに、夕焼けが映える(栃木県日光市で)

     何をしたかは知らないけれど、誰もがみんな知っている。現代人が抱く二宮尊徳(金次郎)のイメージは、こんなところだろうか。

     まきを背負って読書する金次郎像は模範的な少年の象徴として、津々浦々の小学校に設けられた。これは、両親を亡くし、小田原(神奈川県小田原市)の富農だった家の再興を目指していた子供の頃の姿という。勤勉な少年は長じて農政家となり、豊かな社会を実現する夢を描いた。

     捨てられた苗を集めて荒れ地に植えるなど、コツコツと財を蓄えた。無駄を戒め、若くして二宮家を立て直す。手腕が小田原藩に認められ、藩主の分家の領地復興を任された。

     尊徳が生きた江戸後期は、度々、飢饉ききんに見舞われた。天災で土地が荒れれば人心も荒れる。勤労や倹約のかけ声を発しても、言うことを聞かぬ者も少なくなかったという。

     農村改善の一環で架橋工事をしていた際、寒がって川に入らぬ者を蹴落としたこともあったそうだ。進まぬ改革に頭を悩ませたのか、ある時、尊徳は姿を消す。そして寺で断食の修行に取り組むうち、自分にも至らぬところがあるのだと悟った。

    • 動画は写真をクリック
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     「正論を振りかざすばかりでなく、寛容な心で誠を尽くすようになると、周りの人々も変わり始めたそうです」と、二宮尊徳記念館(栃木県日光市)の学芸員・斎藤康則さん(62)は話す。思いやりの心を持って復興を成し遂げた尊徳の下には、諸藩から農村再生の依頼が舞い込むようになる。幕臣に取り立てられ、日光東照宮などの領地だった日光の復興を命じられた。

     「わが道は人々の心の荒蕪を開くのを本意とする」

     人の心を開けば、土地が荒れていようとも、案ずることはない。弟子が言行を記録した「二宮翁夜話にのみやおうやわ」には、こう述べたとある。頑張って働いた者を表彰し、生活困窮者には無利子で金を貸す。開拓を担う移住者には、住まいを与えた。

     尊徳の仕事を現代に当てはめれば、赤字財政立て直しのリーダーといったところか。課題山積の現代、人々の心を動かすには、どんな誠が必要なのだろう。

     (文・増田真郷 写真・佐々木紀明)

    二宮尊徳
     1787年に小田原で生まれ、若くして両親を亡くし親戚宅に寄宿、家の再興を図る。小田原藩士の財政再建などを手がけた後、桜町(栃木県真岡市)に赴任、農地整備、学問奨励などで、農村の再興に尽力した。金次郎という名だったが、幕臣となって尊徳を名乗った。晩年は日光の再興に取り組み、1856年に69歳で病没。死後、息子や弟子が仕事を引き継いだ。勤労や倹約を説く独自の農村再生法は「報徳仕法」と呼ばれる。「二宮翁夜話」は新書判の中公クラシックスなどで読むことができる。

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    2017年11月12日 04時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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