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    小説や映画、詩や歌に残された作家たちの名言。その舞台となった土地をたずね、言葉が生まれた物語や背景、今を生きる人々の記憶を紹介します。

    斉藤仁「エベレストには登ったけれど…」

    遠かった全日本の頂

    エベレストには登ったけれど、富士山はまだ制覇していない(斉藤仁の言葉)

    • 国士舘高校柔道部の練習場では、斉藤仁の次男、立(たつる)さんが東京五輪を目指して黙々と練習をこなす(東京都世田谷区で)
      国士舘高校柔道部の練習場では、斉藤仁の次男、立(たつる)さんが東京五輪を目指して黙々と練習をこなす(東京都世田谷区で)

     1985年4月29日、東京・九段下の日本武道館。全日本柔道選手権の決勝は3年連続で山下泰裕さん(60)と斉藤仁の顔合わせとなった。前年のロサンゼルス五輪では階級は違うが、ともに20代の金メダリスト。世界一同士が日本一を争う注目の一戦。対山下戦では過去7戦全敗の斉藤は必勝の気合で臨んでいた。

     開始4分過ぎ、山下さんが支え釣り込み足を放つと、斉藤が返し技で王者を背中から落とした。観客の多くが斉藤の「技あり」と思ったが、主審は「山下のスリップ」と判断、「有効」のポイントもなかった。

     試合は後半、山下さんが全力で攻め続け、最後は判定で勝った。山下さんが後に斉藤に「オレの負けだったかもな」と言うほどの僅差。柔道ファンの間では今でも「斉藤が勝っていた」という声があるほどだ。

     世田谷・梅ヶ丘の国士舘高校柔道部時代から斉藤を指導してきた川野一成かずなりさん(73)は「斉藤の左の釣り手(利き手)が最後は離れていた。技を不完全とみた審判の判断が誤りとは思わない」と話す。「山下泰裕ほどの天才柔道家と、伝統ある全日本の舞台で柔道史に残る試合をしてくれただけで私は満足です」。試合後、山下さんは現役を引退。目標を見失いかけた斉藤は、ロス五輪後に語った「エベレストには登ったけれど、富士山はまだ制覇していない」という言葉で再起を誓う。

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     88年、斉藤は7度目の挑戦で全日本優勝を決める。普段は冷静な川野さんが応援席を飛び出し、初めて斉藤と抱き合って喜んだ。「全日本という山は遠かった」と笑う。

     斉藤は同年夏のソウル五輪で連覇を達成した後、指導者に。2012年のロンドン五輪で日本男子が惨敗後、山下さんと改革に取り組んでいた頃、肝内胆管がんと分かった。15年1月20日死去。54歳だった。お別れの会で山下さんは「あなたという最高のライバルと出会えて私は幸せでした。一緒に日本代表チームを指導できたことを私は誇りに思います」と震える声で悼んだ。

     斉藤が死去してから3年。日本柔道界を支えてきた先人の存在をもう一度考えたい。(文・西條耕一 写真・佐々木紀明)

    斉藤仁
     1961~2015年。青森市生まれ。青森市立筒井中学時代にテレビドラマ「柔道一直線」を見て柔道を始める。国士舘高校の川野一成監督(当時)に才能を見いだされ、上京し同高へ。柔軟な体と足腰のバネを生かした技で活躍、1984年のロス、88年のソウル五輪95キロ超級2連覇。引退後は母校の国士舘大学や全日本柔道男子の監督を務め、鈴木桂治さんや石井 さとし さんら五輪金メダリストを育てる。全日本柔道連盟の強化委員長も務めた。今回の言葉は、斉藤の著書「常勝力」(幻冬舎)から引用。

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    2018年01月22日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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