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    没後100年 夏目漱石と神保町の深い関係(動画あり)

     今年は文豪・夏目漱石の没後100年。関連するテレビドラマが制作されたり、ブックフェアが開催されるなど、ちょっとしたブームだ。そんな漱石が青春時代を過ごしたのが、世界一の古書街ともいわれる東京・神保町だという。足跡をたどる街歩きツアーがあると聞き参加してみた。

    • 「漱石青春の地を歩く」のルート
      「漱石青春の地を歩く」のルート

    ★神保町は青春を過ごした街

     神保町のフリーペーパー「おさんぽ神保町」が街の魅力を再発見してもらおうと企画したツア―「漱石青春の地を歩く」で、文学ファンなど15人が参加した。案内してくれるのは共立女子大文芸学部の深津謙一郎教授(日本近代文学)。まずは完成したばかりの同大学2号館で漱石と神保町について基礎知識をレクチャーしてもらった。

     漱石は1878年(明治11年)、11歳で錦華学校(現・お茶の水小学校)に入学。神田一ツ橋にあった東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)などを経て、17歳で東京大学予備門(のちの第一高等学校)に入学し、この地で下宿生活を始めた。23歳で予備門を卒業し、東京帝国大学英文科に入学するまでの10年ちょっとが漱石の神保町時代だという。それではさっそく街に出かけよう。

    ★「東大」入試でカンニング

    • 学士会館前にある「東京大学発祥の地」の碑
      学士会館前にある「東京大学発祥の地」の碑

     向かった学士会館は、東大など国立七大学OBの親睦の場として1928年(昭和3年)に完成した建物。この場所にかつて東京大学予備門があり、「東京大学発祥の地」と書かれた碑も立っている。入試科目の数学に難儀した漱石は友人の手助けで合格したと書いている。「そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御陰でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した」(「満韓ところどころ」)

     入学後、神田猿楽町の下宿「末富屋」(どのあたりに存在していたのかは不明)に級友たちと暮らしたが、当時のことを「みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職で有るかのごとくに心得ていた」(同)と振り返っているように、実際に成績不良で落第もしたらしい。

     学士会館前には、米国人教師が野球を伝えたという「日本野球発祥の地」の碑もある。野球という言葉は漱石の友人でもある正岡子規がつくったとよくいわれるが、「どうやら俗説らしいです。本名が『(のぼる)』だったので『の・ぼーる』ということでそういう話になったのかも」と深津教授。「へえー」参加者から驚きの声があがった。

    ★お茶の水小はお宝鑑定団状態

    • お茶の水小にある漱石の直筆原稿「永日小品」
      お茶の水小にある漱石の直筆原稿「永日小品」
    • 年代物の名器「スタインウェイ」にくぎ付け
      年代物の名器「スタインウェイ」にくぎ付け

     学士会館を後にして、神保町の商店街「すずらん通り」へ。今でこそ靖国通りが表通りの風情だが、漱石が過ごしていた頃は逆で、「東京堂や()(ざん)(ぼう)、三省堂など書店や出版社の表玄関はすずらん通りに面していたんですよ」(深津教授)。何の変哲もない小道だったという靖国通りは今は車の往来がひっきりなしだ。横断すると、ほどなく漱石の母校・錦華学校の後継校であるお茶の水小学校に着いた。

     実際には、漱石が通っていた校舎はここから少し離れた場所だったらしい。資料室に通され、いよいよ直筆原稿と対面。「永日(えいじつ)(しょう)(ひん)」という作品で、同校関係者が寄贈したものだ。

     大先輩・漱石への敬慕の念は深く、同校の生徒たちは「それから」「吾輩は猫である」「坊っちゃん」の冒頭部分を卒業までに暗唱できるようになるという。案内してくれた清水智子副校長は「子どもたちは推敲(すいこう)を重ねた跡のある直筆原稿を見て、文章はこうやって丁寧に書くものだということを学ぶんです」。

     この資料室、直筆原稿にとどまらず、なにやらお宝がいっぱいのようで、片隅にあったピアノは名器「スタインウェイ」。大昔に寄贈されて今は使われていないらしいが、参加女性の一人は「ここの子どもたちはスタインウェイの伴奏で歌ってたのね」とうらやましそうだった。

    ★当時の建物で唯一残るニコライ堂

    • 高いビルに埋もれて窮屈そうなニコライ堂
      高いビルに埋もれて窮屈そうなニコライ堂

     漱石が一時期アルバイトで講師をしていた明治大学に立ち寄った後、優美な外観が特徴的なニコライ堂が臨める路地へ。当時はさぞや目立つランドマークだったのだろう。漱石が通った大学予備門を遠くに見下ろした写真も残っている。深津教授は「残念なことですが、漱石が見たであろう建物で現存しているのはニコライ堂だけでしょう」。震災、戦争、高度成長と、いくつもの節目を乗り越えてきた街が変わっていくのは仕方がないとはいえ、周囲をすっかり高いビルに囲まれてしまったニコライ堂は窮屈そうでちょっと寂しい。

     隣には、漱石が慢性結膜炎の治療のために通った井上眼科が、建て替わってはいるものの今もある。ここの待合室で出会った少女について、「昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね」(正岡子規に宛てた書簡)と書いているが、これが漱石の初恋だったという説があるという。 

    ★漱石は岩波書店の大恩人

    • 漱石が揮毫した「岩波書店」の看板
      漱石が揮毫した「岩波書店」の看板

     ツアーはいよいよ終盤。ゴールの岩波書店へと向かう途中、古書店のショーウィンドーに漱石の初版本が。「明暗」「門」「彼岸過迄」、それぞれ20万円、15万円、15万円の値がついている。さすがだなと思っていたらツアースタッフが「このあいだ『吾輩は猫である』の下巻が出てたんですが、すぐに売れました。50万円で」。すごい! 文豪の威光いまだ健在なり。お茶の水小の直筆原稿は一体いくらぐらいになるのだろうか。 

     岩波書店本社に到着。1階ロビーに飾られている木製看板の社名は、創業者の岩波茂雄が教師を辞めて古書店を開業する際に漱石に()(ごう)してもらったもの。同社編集部の赤峯裕子さんによると「茂雄はせっかちだったようで、何枚も書き直す漱石に『先生もういいです』といって、書いた紙を全部持ち帰り、気に入った4文字を選んで並べたというウワサがあります(笑)」。古書店だった同社が出版業に乗り出したのも漱石がきっかけ。流行作家として大出版社から本を出していた漱石を口説き落とし名著「こころ」を出版した。さらに、自費出版という形にして費用まで漱石に負担させたという。なぜそこまで? 赤峯さんは「自分で装丁がしたかったのではないかといわれています」。表紙や扉絵、ハンコ、奥付に至るまで凝りに凝ったつくりだが、すべて漱石がデザインしたものだ。

    ★来年は生誕150年、ブームは続く

    • 「神保町は漱石文学の土台の地」と深津教授
      「神保町は漱石文学の土台の地」と深津教授

     3時間ちょっとの駆け足だったが、漱石の足跡は十分に堪能できたツアーだった。最後に漱石にとっての神保町を深津教授に聞いた。「10代のほとんどを過ごした街、土台となった街です。落第したり、友達とバカ騒ぎしたり、恋をしたり。そうした経験がのちの漱石文学の豊かさにつながっていったのだと思います」。

     12月には岩波書店が新資料も加えた決定版とうたう「定本 漱石全集」の刊行も始まる。来年は生誕150年、まだまだ漱石ブームは続きそうだ。

    (メディア局編集部 大橋誉久)

    【動画】「漱石青春の地を歩く」ツア―=メディア局ストリーム班撮影

    2016年10月20日 16時15分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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