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    <中>レールバス 思い出満載

    • 船佐駅に入るレールバス
      船佐駅に入るレールバス
    • レールバスの車内の子どもたち(いずれも昭和30年代、吉野さんの父、静雄さん撮影)
      レールバスの車内の子どもたち(いずれも昭和30年代、吉野さんの父、静雄さん撮影)
    • 三江線の写真を見る吉野さん。好評につき、企画展終了後も一部を展示している(安芸高田市歴史民俗博物館で)
      三江線の写真を見る吉野さん。好評につき、企画展終了後も一部を展示している(安芸高田市歴史民俗博物館で)

     ◇山間の暮らし 支え続け

     1955年3月、三江線が三次―式敷間で開通した。当初、2両編成の気動車が運行していたが、間もなく「レールバス」と呼ばれる1両の気動車が走る。

     レールバスは、コストを抑えるために開発された軽量車体で、バスのような外観から命名。全国の小規模な鉄道に使用されていた。

     安芸高田市甲田町の吉野隆次さん(68)は、父の静雄さん(2013年に89歳で死去)が国鉄の機関士で、開通に合わせて住んでいた三次駅近くの官舎から、船佐駅近くに転居した。

     レールバスには、三江線が口羽駅まで通じる63年6月まで乗り、通っていた三次中学の最寄り駅、尾関山まで利用した。車内で静雄さんが撮った写真に、制服制帽姿の吉野さんと妹や親類の女の子が写っている。「何か写真を撮りに行くので三脚をチェックしているところです」と吉野さん。のどかでゆっくりとした時間が流れていた。

              ◇

     その後、三次高校、呉市の大学へと進み、建設会社に入社。島根県で働いていた72年(昭和47年)7月、「47豪雨」と呼ばれる大災害が起きる。江の川沿いの実家も家ごと川に倒壊する寸前で、両親や妹らも甲田町への転居を余儀なくされた。吉野さんは帰省もかなわず、電話で皆が無事だと聞いて胸をなで下ろした。

     2001年に東京から広島市での勤務となったものの、高校まで利用した三江線を思い出すことはなかった。10年に甲田町の両親と一緒に暮らし始めた後、静雄さんは一人で写真などを整理し、私家版のアルバムを作ろうとしていたが、写真店で完成する直前に、亡くなった。そのことを後で知った吉野さんは、三江線に懸けた亡父の強い思いを感じた。

              ◇

     吉野さんの母、政子さん(91)は「38豪雪」の時に近くの雪崩を発見し、通報したことで当時の国鉄中国支社長から感謝状を授与されている。国鉄マンの妻として夫を支えてきた。

     昨年夏、政子さんを連れ、妹2人と4人で三江線に乗った。吉野さんが乗るのは高校卒業以来。三次から口羽までの折り返しだが、車いすの政子さんは車窓からの景色を眺め、「懐かしいね」とうれしそうだった。

     その笑顔を見て吉野さんは「親孝行が出来た」とほっとした。それと同時に、さみしい気持ちが込み上げてきた。離れていた時期があっても、鉄路は確かに家族を支えてくれていた。

    2018年02月12日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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