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    国産の灯 生活温めた

     ◇姫路・マッチ

    • 50年以上マッチ作りに携わる名定さん。「昔は夢でもマッチのことを考えていた」(姫路市東山で)
      50年以上マッチ作りに携わる名定さん。「昔は夢でもマッチのことを考えていた」(姫路市東山で)

     所々にさびが浮かぶ、年季の入った大型機械(長さ12メートル、高さ4メートル、奥行き2メートル)が轟音ごうおんを立てて稼働する。長さ5センチの軸木に、着火部分の朱色の頭薬とうやく。そのスタイルは、140年変わらない。

     1923年設立のマッチ製造「日東社」(姫路市東山)の工場。62年の入社以来、マッチ作り一筋の名定なさだ忠幸さん(74)は、半世紀近い付き合いとなる機械を指して、「音を聞けば、どの部品が摩耗しているかまでわかる」と苦笑いする。メーカーは既に製造をやめており、修理も自らの手で行う。業界の盛衰を知るベテランだ。

     日本燐寸まっち工業会(神戸市)によると、マッチの国内生産は1875年頃に始まり、兵庫では77年、神戸市の下山手通に小さな工場ができたのが先駆けとされる。

     火打ち石での発火が一般的だった世の中に、マッチは瞬く間に広がった。兵庫では、当時神戸で力を持っていた華僑をパイプに、中国やシンガポール、フィリピンなどにも輸出され、93~96年には神戸港の工業製品輸出量で1位となった。

    • 大正期から昭和初期とみられるマッチ工場での箱詰め風景。当時は軸木の乾燥から箱詰めまで、ほとんどが手作業。女性にとっても貴重な雇用の場だった=日本燐寸工業会提供
      大正期から昭和初期とみられるマッチ工場での箱詰め風景。当時は軸木の乾燥から箱詰めまで、ほとんどが手作業。女性にとっても貴重な雇用の場だった=日本燐寸工業会提供

     国内生産の最盛期は1907年。114万マッチトン(1マッチトン=35万本相当)を生み出し、県内には46社、66工場が立ち並んだ。貿易港を備えるうえ、瀬戸内で晴天が多く天日での乾燥作業もはかどるため、神戸は生産の中心地となった。

     箱詰め作業などで女性工員も多く動員され、23年のデータでは、県内62工場の工員約1万600人のうち約7400人を女性が占めた。家庭での箱の組み立てやラベル貼りの内職も盛んで、庶民の生活の支えにもなった。

     1960年代に神戸で重工業が発展し始め、生産の中心は姫路へ移った。現在、国内生産量の約9割が姫路産なのは、そのためだ。この頃、機械化も進んだ。名定さんは「毎日忙しかった。みんなの生活を支えている自負はあったかな」と懐かしむ。

     高度成長期が終わり、使い捨てライターが普及し始めた70年代中盤以降、生産量は減少の一途をたどった。2016年はピーク時の約90分の1の1万2460マッチトン。現在、工場でマッチを作っているのは、日東社、大和産業(姫路市網干区)、中外燐寸社(岡山市)の3社だけだ。

     〈右肩下がり〉の時代に入ると、マッチ業界の雰囲気も変わり始める。撤退する会社が相次ぎ、日東社も77年にライター部門を設立したのを手始めに多角経営に乗り出し、現在は紙おしぼりやポケットティッシュなども製造。テニスコート運営を手がけるグループ会社もある。

     それでも、マッチ作りはやめない。「マッチで始まった会社だから」と大西あきら会長(83)。名定さんも「こんな時代でも選んでくれる人がいる。体力が続く限りは引退できない」。

     緑や紫のカラフルな頭薬、明治・大正期のレトロ感あふれる復刻ラベル――。日本燐寸工業会が2009年に開店した「マッチハウス マッチ棒」(神戸市中央区)には、工芸品扱いの商品が数多く並ぶ。

     同工業会の会長として、デザイン性などに着目した大和産業の岡田兼明社長(62)は言う。「ライターの方が確かに便利。でも、マッチには生活に安らぎを与える力、味わい深さもある。地域を支えてきたマッチを、形として残す努力を続ける」。言葉の端々に、兵庫の産業を支えてきたプライドがにじみ出ていた。(松田智之)

    2018年01月04日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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