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    林子平の名 町名に

     かつて、仙台市の子平町に叔母が住んでおり、私はよく行っていた。

     ある時、もう20年も昔だと思うが、ふと気づいて叔母に聞いた。

     「ここ、以前は半子町って言わなかったっけ?」

     すると、言われた。

     「表示変更で、だいぶ前から子平町。この名前を希望する人が多かったという話よ」

     その時は、新しい町名が林子平から来ているとは、なぜか思いもしなかった。

     ところが、東北大に入ってしばらくした頃、江戸時代に詳しい友人が仙台に遊びに来た。そして、

     「林子平の墓って龍雲院にあるでしょ。行ってみようよ」

     と言う。その時、初めて「そうか、子平町って林子平から取った名前か」と思い当たった。

     私は林子平については、江戸後期に経世済民のために働いた思想家であるということしか知らなかった。あとは「寛政の三奇人」と呼ばれたことくらいだ。

     友人を龍雲院に案内する道すがら教えてもらったのだが、この林子平という男、非常に面白く、かつ先見の明があったという。ただ、それが当時の人たちには理解されなかった。

     当時、子平は、ロシアの船が日本近海に出没することに危惧を抱いており、江戸幕府は対外兵備を即刻行うべきだと説いた。そして『海国兵談』を書き、島国としての具体的な国防策、経済策を論じ、訴えた。

     ところが、これが江戸幕府の逆鱗(げきりん)に触れた。現代と違い、当時は幕府のあり方を批判するなど、ありえない。

     子平は江戸を追われ、仙台に禁固(きんこ)されてしまったのである。さらに、『海国兵談』の板木を没収された。板木とは文字を彫った板で、これがなくてはもう印刷できない(幸い、こっそりと副本を持っており、後に再版できた)。

     その頃、子平は歌を詠んだ。

     「親もなし妻なし子なし板木なし/金もなけれど死にたくもなし」

     龍雲院で、友人は言った。

     「この歌を詠んだ後、子平は『六無斎』という号にしたのよ。この歌、無いものを六つ並べてるでしょ」

     「それはかなり虚無的になってたの? あるいはどうせ俺はこんなものっていう自嘲?」

     「それらもあるだろうし、私は何も見えていない幕府への抗議をこめてた気もするけどね」

     結局、子平はわずか1年ほどの仙台蟄居(ちっきょ)で、病死したという。

     だが、調べてみると、19世紀になって幕府は江戸湾の海防強化に乗り出した。『海国兵談』がその起点になっていたというから、友人の言う「抗議の気持」は、きっとあったに違いない。さらに同書は、後の日本海軍の戦略家佐藤鉄太郎の軍事思想にも影響を及ぼしたとある。

     私は2月のある日、1人で龍雲院に立ち寄り、「子平は今頃きっと、仙台に送られてよかったと喜んでいるわ」と思っていた。いわばマイナーな、江戸から移送された不遇の思想家の名前を、現代の人々が「町名に」と望んだのである。

     仙台人って、悪くないなァ。(うちだて・まきこ)(毎月最終日曜日に掲載)

    2014年06月11日 19時08分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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