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    (4)被災体験 歌で次代へ

    • 「阿賀野川」を歌う三川中の生徒たち(27日、新発田市生涯学習センターで)
      「阿賀野川」を歌う三川中の生徒たち(27日、新発田市生涯学習センターで)

     母なる阿賀野川は その大自然の中で 幸せの歌を生み続けた めぐる山々は 頂上に その大きな歌を木霊させた♪

     

     新発田市で27日に開かれた羽越水害復興50年の記念シンポジウムで、阿賀町立(旧三川村立)三川中の全校生徒約50人の歌声が響き渡った。歌い上げたのは、5曲で構成された合唱組曲「阿賀野川」だ。

     歌詞は、水害時に三川中の3年生だった大屋(旧姓・斎藤)美智子さん(64)の体験が基になっている。「思い出すと今でも胸が詰まるが、50年の節目。当時のことを伝えたい」。大屋さんが語る。

     1967年8月28日夜、自宅近くの新谷あらや川の流れが激しさを増し、避難を呼びかける半鐘が村中に鳴り響いた。

     浸水に備えようと、自宅で家族とともに2階に家財道具を運び、少し疲れて1階で横になった時だった。首の後ろや足元に、水の感触があった。跳び起きて茶の間をのぞくと、かまどの灰が浸水した水によって天井に吹き上げられていた。「死ぬのかな」。歯がガタガタ震えだした。

     慌てて2階に上がったが、その間も水位が上がる。「早く下りてこい!」。消防団長として水防作業に当たっていた父の利一としいちさん(当時41歳)が帰ってきて、自宅外への避難を求めた。濁流は腰の高さになり、利一さんの持つ竹ざおにつかまって、石垣の上にある民家にどうにか避難した。自宅は程なくして流されていった。

     10日ほどして学校が再開したが、同級生の一人は土砂に押し出されて亡くなった。

     最初の授業は水害の体験を作文にすることだった。「思い出したくない」。大屋さんはこう題して、体験を原稿用紙数枚に書き上げ、卒業文集に掲載された。

     それから二十数年後。三川中に赴任した音楽教師の岩崎正法さんが文集を読み、作文に感銘を受けた。「鎮魂の意味を込めた合唱組曲を作りたい」。大竹敏夫校長(当時)に掛け合って村に協力を要請すると、水害で家族4人を亡くした山口銀次村長(同)は快諾した。山本和夫、岩河三郎両氏に作詞、作曲をそれぞれ依頼し、1991年7月、「阿賀野川」が完成した。

     翌月、新潟市内で三川中の生徒によって披露されると、多くの聴衆が涙を流したという。当時、3年生で歌った斎藤隆さん(40)は「歌で水害を学んだ。今でも忘れていない」と振り返る。

     阿賀町には、混声合唱団「阿賀野川を歌う会」がある。「人々が立ち上がる力強さが歌詞に込められている。大切に歌い継いでいきたい」。柾木まさきゆり子代表(69)は話す。

     災害を次代に伝えることは、亡くなった人だけでなく、つらい記憶を乗り越えて力強く生きる人に思いをはせることにもつながる。

     

    (おわり。この連載は、鳥塚新、浜田喜将が担当しました)

    2017年08月28日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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