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    NIKKO幻の高級工芸/明治~大正地域を振興

    • 「森乙丸刀」と刻まれた三サルの日光彫(個人蔵)
      「森乙丸刀」と刻まれた三サルの日光彫(個人蔵)
    • 守田兵蔵
      守田兵蔵
    • 日光ブランドの拠点となった鍾美館(個人蔵)
      日光ブランドの拠点となった鍾美館(個人蔵)
    • 鍾美館で美術工芸を学ぶ子どもたち
      鍾美館で美術工芸を学ぶ子どもたち
    • 鍾美館でつくられた作品であることを示すスタンプ
      鍾美館でつくられた作品であることを示すスタンプ
    • 人見城民による「葡萄図日光堆朱硯筥」(個人蔵)
      人見城民による「葡萄図日光堆朱硯筥」(個人蔵)
    • 森乙丸
      森乙丸

     明治から大正期に、「NIKKOブランド」として売り出された美術工芸品があった。日光に集結した名工たちによる逸品は外国人に好まれ、高額で売れた。日光は文化の先進地であり、文化が大きな産業にもなっていた。ただ、外国人向けブランドに徹したことで地元に根付かず、その存在はほとんど伝わっていない。(都梅真梨子)

     

    ■仕掛け人守田兵蔵

     NIKKOブランドには、すご腕の仕掛け人がいた。壬生藩出身の守田兵蔵ひょうぞう(1844~1925年)。元々は武士だったが、算術の知識を買われて明治政府の測量技師になり、全国の鉱山を巡った末、古里に近い足尾銅山に着任。ここで「日光に新しい産業を起こしたい」と実業家に転じた。

     日光商業銀行の設立や田母沢御用邸の造営にも関わった守田は、土産品として売られる作品のブランド化を発想した。秋田の鉱山で知り合った若手画家に、後に日本美術院創立に参画した寺崎広業がいる。守田の美術の素養や審美眼は不明だが、若く有望な芸術家との触れ合いと、地域振興への熱意が結実した。

    ■鍾美館

     1894年(明治27年)、私財を投じて自宅を「美術工芸品陳列場 鍾美館しょうびかん」に改装。今でいう美術館で、即売も制作もした。そして、全国から腕の立つ芸術家を招いた。日光彫に漆を塗り重ねた「日光堆朱ついしゅ」、日光の景観を描いた水彩画「日光絵画」、足尾銅山の土を使った「日光焼」が次々と生み出された。

     ターゲットは静養や観光に訪れる外国人。作品にはスタイリッシュなスタンプを押した。日光東照宮の建築や装飾の技術を伝える精巧な品という“血統書”になり、現在の価格で数十万円でも売れた。

     質の高いブランドを送り出す鍾美館は芸術家を支えた。近代美術史に大きな足跡を残した小杉放菴ほうあんは、師匠の五百城文哉いおきぶんさいとともに鍾美館に出入りしていた。小杉放菴記念日光美術館の田中正史学芸課長は、「鍾美館での売り上げがあったから五百城は小杉を内弟子にできた。小杉も鍾美館から作品を出し生活の足しにしていたはず」と見る。

     鍾美館は芸術家の育成所でもあった。守田は若手や志ある子どもを集め、ベテランから技術を学ばせた。全国の公募展に出品させては賞を取らせ、はくをつけた。日光を舞台に、守田による巨大なアートプロジェクトが進んでいた。

    ■衰 退

     しかし、大正天皇が即位すると、鍾美館は田母沢御用邸行幸に付きそう儀仗ぎじょう隊の宿舎になった。ブランドの拠点は、日光金谷ホテルを経営する金谷善一郎氏がオーナーの「日光美術館」に移ったが、同館も昭和初期までに解体された。

     衰退の背景には鍾美館の経営難があったとされるが、その理由はわかっていない。

     ブランドは忘れられた存在になったが、鍾美館を調査している壬生町立歴史民俗資料館の中野正人学芸員はこう評価する。「アートで地域振興を図る個人や自治体は現代にもいる。作品の質を高めながら地域ブランドをPRし続けた守田の手腕は、大いに参考になる」

     

    謎の名工森乙丸/

     NIKKOブランドを支えた芸術家に、森乙丸という名工がいたことが壬生町立歴史民俗資料館の調査で明らかになった。

     東照宮を彷彿ほうふつとさせる三サルや眠り猫の彫刻、精巧な欄間……。日光金谷ホテルや日光市内の骨董品店に約10点が残されていた。いずれも「森乙丸刀」と彫られている。作者の名前によらず、作品の精巧さから保管されてきた。

     今年に入って、NIKKOブランドを調べていた中野正人学芸員が、「栃木県芸術総覧」(1954年)に森の名を見つけた。堆朱彫刻師の人見城民ひとみじょうみんの紹介欄に「彫刻は森乙丸に師事」とあったのだ。

     人見といえば、日光堆朱の巨匠、上野桐恵とうけいを継いだ天才芸術家。中国美術や蒔絵まきえ、沈金の技法も取り入れて日光堆朱を芸術の域に高めた。60年には、県の文化功労賞を受賞している。

     日光彫に漆を塗り重ねる日光堆朱のためには日光彫に熟達しなければならない。人見は日光彫を森に習ったと考えられる。人見、上野はNIKKOブランドを代表する職人。森も鍾美館で指導役として中心的な役割を担っていた可能性が高い。

     幼い頃に森にかわいがってもらったという人物も見つかった。県文化協会会員で洋画家の高橋忠吉さん(76)。森は平屋の自宅をアトリエにして、商業用の欄間などを彫っていた。こけしや盆も天下一品で、「乙丸さんほどのものは誰も作れない。ものすごい売れようだった」と振り返る。木製の飛行機の模型をつるして喜ばせてくれたという。

     しかし、1908年頃から50年頃まで日光に住んでいたこと、人見の師匠だったこと、子ども好きだったこと以外、どこで生まれ、どこで学んだのかも不明だ。

     中野学芸員は「名もない職人はサインできないが、森の作品全てにサインがある。作品の素晴らしさは、眠り猫を彫った伝説の彫刻家、左甚五郎に匹敵するのでは。これほどの名工がなぜ歴史に埋もれたのかも含め調べたい」と語っている。

     

     

     同資料館は、上野桐恵、森乙丸、人見城民の作品と足跡を紹介する企画展「NIKKOを彫る―桐恵・乙丸・城民」を16日から6月21日まで開催する。

    2015年05月13日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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