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    まとめ読み「NEWS通」

    戦後70年…玉音放送の録音原盤と音声を初公開

    よみがえった44歳当時の昭和天皇の肉声

    • 昭和天皇の肉声が録音された終戦の玉音放送のレコード原盤(代表撮影)
      昭和天皇の肉声が録音された終戦の玉音放送のレコード原盤(代表撮影)

     戦後70年にあたり、宮内庁は8月1日付で、昭和天皇による終戦の玉音放送の録音原盤と音声を初めて公開した。レコード原盤から再生した声は、複製を重ねた既存の音源に比べて明瞭で、ラジオ放送を通じて自ら終戦の混乱収拾にあたった44歳当時の昭和天皇の肉声がよみがえった。

     終戦の「玉音放送」原盤を公開の動画はこちら。

     「食糧問題に関するお言葉」を公開の動画はこちら。

    御文庫付属室内部の写真、映像も

     終戦の「聖断」が行われた皇居内の御文庫付属室(地下防空壕)内部の写真、映像なども公開された。大戦の終結を決断した歴史の舞台は、床が抜け、壁ははがれ、往時の姿はない。

     「御文庫付属室」公開の動画はこちら。

     「御文庫付属室」の写真特集はこちら。

    戦後70年 あの夏

     広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦、そして終戦の玉音放送……。70年前、未曽有の惨状にあって人々はどう行動し、何を考えたのか。「あの夏」を語ってもらう。

    引き揚げ 本当の戦い…作家 五木寛之さん 82

     私が生まれてすぐ、一家は朝鮮半島に渡りました。教師だった父母が新天地を求め、植民地だった半島の学校に赴任したのです。→(続きを読む)

    死ぬなら前座より二ツ目…落語家 三遊亭金馬さん 86

     「おい、お前、二ツ目にしてやるぞ!」
     昭和の名人、先代(三代目)三遊亭金馬が突然、前座のあたしに“昇進”を告げました。1945年8月18日、終戦から3日後のことです。→(続きを読む)

    空襲下 庭にキュウリ実る…生活評論家 吉沢久子さん 97

     〈はれ 十時頃から、P51(米軍の戦闘機)編隊の侵入。外出できず〉〈わが家の菜園のキュウリの初なり〉
     70年前の8月3日に私が書いた日記です。今読むと、こんなことがあったんだとびっくりしてしまいます。→(続きを読む)

    格好良く死ぬ 信じた15歳…環境経済学者 宮本憲一さん 85

     「玉音(ぎょくおん)放送」の数日前だった。海軍兵学校・防府分校(山口)の庭でベートーベンの交響曲が鳴った。空襲で校舎が壊滅して悄然(しょうぜん)としていた我々生徒に、「元気を出せ」と教官の一人が異例のレコードコンサートを開いてくれたのだ。→(続きを読む)

    崩れた「白人は無敵」…マハティール・元マレーシア首相 89

     広島に1945年8月6日、「巨大爆弾」が投下されたことは間もなく知った。当時、マレー半島南部は日本軍に占領され、報道統制下だった。だが、住民の一部はラジオを隠し持ち、海外放送を聞いていた。→(続きを読む)

    「一発で戦争終結」の神話…米作家 リチャード・ローズさん 78

     原爆投下は、日本軍の戦意を失わせる「衝撃と畏怖」戦略でした。一発の爆弾が都市を破壊する惨状を見て、日本の指導者が降伏を受け入れることを米国は期待したのです。広島への原爆投下で終戦が近いと判断したソ連は、対日参戦を早め、日本は降伏しました。→(続きを読む)

    肺患い なぜか「乙種」合格…洋画家 野見山暁治さん 94

     私が東京美術学校を半年早く繰り上げ卒業したのは1943年9月。すでに戦局は日本に不利でした。中学時代に肺浸潤を患い、その後も再発、留年するという病歴があったのに、卒業の半年ほど前に受けた徴兵検査で、第一乙種合格に。→(続きを読む)

    熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75

     私の両親は、日本の植民地だった朝鮮の慶尚南道(キョンサンナムド)から渡来しました。翌1940年、私は広島市で生まれた。韓国は生みの親、日本は育ての親のようなものです。→(続きを読む)

    ピカッ 地獄に一変…歌手・俳優 美輪明宏さん 80

     父は、長崎市の丸山遊郭と呼ばれた花街近くでカフェーを経営していて、上の階が自宅でした。爆心地の南東約4キロのあたりです。戦時中、水商売は享楽的で不謹慎とされ、店は閉鎖されていました。→(続きを読む)

    占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102

     「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。→(続きを読む)

    ちゃちな特攻機米と大差…元経済企画庁国民生活局長 小金芳弘さん 90

     あの夏、学習院高等科2年生だった僕は、勤労奉仕に駆り出され、東京・駒場の航空研究所で飛行機の開発を手伝っていました。設計図を一目見るなり、特攻用だとわかりましたね。人間1人と、爆弾を積むスペースしかない。ぺらぺらで、ちゃちなものでした。→(続きを読む)

    終戦の満州、悪夢の始まり…俳優 宝田明さん 81

     12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、私も朝鮮で生まれました。→(続きを読む)

    2日前に知った「終戦」…ノンフィクション作家 近藤富枝さん 92

     終戦の前年、1944年10月、日本放送協会(NHK)に入局し、ラジオ放送のアナウンスをしていました。22歳でした。70年前の8月13日の夜、放送会館(東京・内幸町)で宿直をしていて、海外放送を担当する部屋を通りかかりました。→(続きを読む)

    重大放送 まさかの終戦作家…半藤一利さん 85

     私は花火が嫌いです。遠くから見る(しょう)()弾そのものだからです。花火に招待してくれる人に悪いから黙っていたけど、見ようとは思わない。あの恐ろしさは今も目に焼き付いています。→(続きを読む)

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    2015年08月15日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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