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    あの夏

    熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75

     私の両親は、日本の植民地だった朝鮮の慶尚南道キョンサンナムドから渡来しました。翌1940年、私は広島市で生まれた。韓国は生みの親、日本は育ての親のようなものです。

     人間には知恵がある。互いに引くところは引き、話し合えば片づかないものはないというのに、なぜ争うのか。政治は分かりませんが、喧嘩けんかしてもどっちにもマイナス。その最たるものが戦争です。5歳だった「あの夏」は忘れない。

     その時、家を出るところでした。自宅は爆心地から2キロと離れていなかった。でも海抜約70メートルの比治ひじ山が、熱線を遮ってくれました。家屋は全壊し、意識が戻り最初に記憶しているのは、私らをかばって覆いかぶさっていた母の血の赤い色。先に逃げなさいと言われ、近くのブドウ畑に避難した。人肉の焼ける強烈な臭い。叫声を上げながら、近くの猿猴えんこう川に飛び込み亡くなっていく人々。夜通し続くうめき声。

     2日ぐらいたち、比治山で勤労奉仕中に行方不明になった姉が、服の名札を手がかりに担架で運ばれてきました。優しくて、美人で、慕っていた姉でした。それが顔も分からないような無残な姿になって、「熱い、痛い」と。私はブドウを取って、姉の口に持っていった。汁が出たかは覚えていない。でもかすかに姉が、勲ちゃん、ありがとうと。母は着ていたチョゴリを引き裂いて、不眠不休で冷やそうとした。1日半ぐらい、生きていましたかね。

     皆さん70年と言うけれど、我々にはまだ、戦争は終わっていないんだよね。70年引っ張っとるからね。朽ち果てるまでは、忘れることができない。それに亡くなった人々は「犠牲」じゃない。我々の身代わりなんです。それを自分のことじゃないとは、考えてもらいたくない。

    避け続けた「8.6」

    • 張本勲さん
      張本勲さん

     戦争というのは、相手が分かっているからよけい怒りを感じます。私はプロ野球を引退後、広島原爆の平和記念資料館に2度行こうとしたのですが、手に汗がにじんで震えて、入ることができなかった。苦しみだけでなく、怒りと恨みがこみ上げてくるのです。よくもこんな姿に、こんな形で。身代わりで、あれだけの人をね。それはやった方は言い分があるでしょう。それがないともっと犠牲が出たとかね。やられた方は、忘れることができない。

     2006年、新聞に載った「8月6日は思い出したくない」という私のインタビューを見て、小学生の女の子から投書が来た。自分は長崎の原爆資料館を、怖かったけれど見てきたと。聞いた時には私の方が恥ずかしくてね。被爆者の当人が行かないでどうすると。それで、初めて広島の資料館に行った。その入場券は、その女の子に送りました。

     まだ世界のどこかで人間は、戦争みたいなことをやっている。広島や長崎の資料館で、愛する娘や息子が、尊敬する父母が、こうなったらどう感じるかって、自分に置き換えて考えてくれれば、戦争はなくなると思うんですけどね。

    夢は民族超えた野球チーム

    • 4歳のころの張本さん(中央)
      4歳のころの張本さん(中央)

     振り返ると、私の人生を救ってくれたのは、野球だったと思います。母や兄の強さが、それを支えてくれたからでもありました。

     原爆で姉を亡くす前の年のこと。4歳だった私は、バックしてきた三輪トラックにぶつけられ、たき火の中に転がり込み大やけどを負いました。顔や胸の傷は治ったが、右手は薬指と小指が燃えてしまって完全に癒着し、親指と人さし指も曲がったまま。叔父が警察に届けたところ「お前ら朝鮮人じゃないか」と、取り合ってくれなかったといいます。叔父は震えるぐらい悔しかったと言っていた。

     戦争の後、朝鮮に帰っていた父が死にました。太刀魚の骨が刺さり、食道が破れたためでした。

     母の思いはどんなだったか。言葉も話せない地で、胸の張り裂けるような状況の中、3人の子どもを養ったのです。原爆の焼け野原の橋のたもと、6畳トタン屋根の小屋で、工員らを相手に料理を出した。駅近くの闇市まで、電車代を惜しんで仕入れに歩いて。雪の中、戻った母の手が氷のようだったことを覚えています。朝から晩まで、母が寝ている姿を見たこともない。

     兄はタクシーの運転手を始め、56年に私が野球の強豪・浪華商業高に入学を許されると、収入の半分の1万円を毎月仕送りしてくれた。パンを食べるか、銭湯に行くかを迷う切りつめた生活でしたが、家族への思いがハングリーさにつながった。右手の後遺症も、左投げに変え克服しました。

     ところがそんな中、これが差別か、と初めて感じた出来事が起きた。甲子園を前に、野球部内の暴力行為の責任を私一人が背負わされ、出場停止処分になったのです。潔白を証言する部員は多かったろうに、調査さえ行われませんでした。4番打者が甲子園出場の夢を絶たれ、電車に飛び込もうかとも思い詰めましたが、どこからか母の声が聞こえてきました。

     荒れかけた私を救ったのは、在日の高校選抜チームで行った韓国遠征でした。初めて祖国の土を踏み、歓迎のアリランに胸を打たれた。野球への情熱を取り戻し、帰国するとプロ球団のスカウトが待っていました。

     私は22年のプロ野球人生で通算安打3085本の記録を作り、韓国でもプロ野球リーグ創設に奔走しました(その後、勲一等に相当する無窮花章受章)。最後の夢は、野球のアジアリーグで、民族を超えたアジア代表チームを作り、米国代表と試合をすることです。

     私たちには、それぞれが受け継いだ国をより良くして、後世に引き継ぐ責任がある。戦後70年、我々が抱き続ける戦争への怒りを、継いでいくこともその一つです。日本と韓国の関係も含め、だからこそ仲良くしなきゃ。それが私の念願です。野球の世界では、ずっと交流が続いている。    

    (聞き手 編集委員 結城和香子)

     張本勲(はりもと・いさお) 元プロ野球選手、テレビ解説者。1940年広島生まれ。浪華商業高から東映に入団。その後、日拓、日本ハム、巨人、ロッテに在籍。通算3085安打の日本記録樹立。82年の韓国プロ野球創設に尽力。90年日本野球殿堂入り。本名は張勲(チャン・フン)。

    差別、貧困…「折れない心」に

    • 現役時代の張本さん(1976年)
      現役時代の張本さん(1976年)

     敗戦時の日本には、朝鮮出身者が200万人以上いたとされる。日韓併合以来の土地再編などで生活基盤を失った人や、労働力として渡来してきた人もいた。広島に落ちた原爆では、数万人もの朝鮮出身者が被爆した。張本さんの家族もそうだ。

     やけど、原爆、父の死、貧しさ、差別。これでもかという試練を振り返る張本さんに見るのは「折れない心」だ。右手を人に見せなかった選手時代。母の苦労は「大変だが当たり前と思っていた」。受け入れることで鍛えられた、鋼のような人間性が、あの野球人生につながったのだと思う。

     でも改めて戦争という視点で見ると、植民地とされた母国から日本に渡り、原爆に遭い、帰国もできずに運命が変わっていく流れが見える。張本さんの人生は、戦争が突き付けた現実との戦いでもあったはずだ。日本と韓国という近くて遠い二つの国の、今に至る相克の中で。

     戦後70年。私たちは原爆や引き揚げなど、被害者としての戦争体験を通じ「あの夏」を振り返ることが多い。でも被害と加害の立場が実は、複雑に絡み合っているという現実も、見つめていくべきなのだろう。(結城

    2015年08月09日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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