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    計1万8000人を超す死者・行方不明者を出した東日本大震災。発生から5年を迎える被災地で復興に情熱を傾ける人々の姿、再生に向けた足取り、災害の教訓を生かす取り組みをお伝えします。
    現場から

    被災地に希望の火をともす「復活の薪」

    NPO法人吉里吉里国理事長 芳賀正彦


     1万8000人を超える死者・行方不明者を出すなど、未曽有の被害をもたらした東日本大震災から5年。多くの課題を抱えながらも復興への道のりを歩む現場から、「被災地の今」をリポートする。初回に登場するのは、約1300人が犠牲となった岩手県大槌町で、「復活の ( まき ) 」と称するプロジェクトに取り組んでいるNPO法人「 吉里吉里国 ( きりきりこく ) 」の芳賀正彦理事長(67)だ。震災で倒壊した家屋などの廃材から薪を作って販売、現在は町内の森林から切り出された間伐材で薪を生産・販売し、町の復興の一翼を担っている。芳賀さんが「復活」への思いをつづった。

    NPO法人「吉里吉里国」理事長 芳賀正彦

    もう被災者であってはならない

    • 津波で壊滅的被害を受けた大槌町の市街地(2011年3月13日、中嶋基樹撮影)
      津波で壊滅的被害を受けた大槌町の市街地(2011年3月13日、中嶋基樹撮影)

     今年の大槌の冬は、雪もほとんど降らず、例年より暖かい日が多くなりました。とはいえ、朝方は気温が氷点下3、4度まで下がることもあります。言うまでもなく冬場は、私たち「吉里吉里国」が生産・販売している「復活の薪」の需要が最も多いシーズンです。もっとも、薪ストーブなどで薪を利用する人の大半は、秋のうちにひと冬分の薪を買いだめします。だから、私たち「吉里吉里国」のスタッフは今、次の冬に販売する薪の生産で、忙しい日々を過ごしています。そうしたなか、今年もまた、「3.11」が近づいてきました。

     あの日、私と妻は、吉里吉里地区にあった自宅にいて、昼食を終え、居間でのんびりテレビを観ていました。その時、突然、激しい揺れに襲われたのです。茶だんすなどがバタバタと倒れ、私と妻は立ち上がることさえできず、テーブルの下に潜り込むのが精一杯でした。1976年に大槌に移り住んでから、何度か大きな地震を体験しましたが、過去に経験したことのない、巨大な揺れです。私は「これは、とんでもない大津波が来る」と直感しました。揺れが収まると、着のみ着のまま、避難所に指定されていた吉里吉里小学校へと逃げました。

     高台にある避難所からは、津波が家々を()み込んでいく様子が見えました。私はあまりの出来事にあっけにとられ、恐怖すら感じませんでした。

     大槌町では、吉里吉里地区漁港付近で最大22メートルの津波が観測され、津波浸水区域は、住宅地・市街地面積の52%に及びました。死者は、町の人口の約1割に当たる1285人(2016年2月1現在)、建物被害は全世帯数の約64%に当たる3717世帯に上りました。

     町の主要産業の一つである漁業も壊滅的な打撃を受けました。漁港にあった約250隻の漁船のうち、残ったのは2隻だけ。大槌湾内にあったワカメやホタテなどの養殖施設はすべて津波に流され、漁師たちは「海がなくなった!」と叫びました。

     幸い、私と妻、そして勤務先の保育園にいた娘は、無事に助かることができました。私は、何か目に見えぬ力によって助けてもらったのだと感じました。もっとも、自宅は津波を受けて、屋根と4本の柱が残っただけの全壊。車や家具・衣類はもちろん、大切なアルバムも流され、写真1枚さえも残ってはくれませんでした。

     私たち家族は、これからどうやって生きていくべきか? この町は、これからどうなるのか? 壊滅した街を目の当たりにして、絶望と悲しみの(ふち)に立たされました。

     しかし、私が最も深い悲しみを覚えたのは、がれきの山と化した街中を、吹きすさぶみぞれ雪に打たれながら、行方のわからない家族を探し求める人たちの姿でした。大切な人の名を呼び続け、さまよい歩くことしか出来ない方々の心情を察すれば、「自分は家族みんなが助かったことに、まず感謝せねば」と思いました。そして、「自分はもう被災者であってはならぬ」と心に決めたのです。

     

     

    2016年03月01日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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