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    計1万8000人を超す死者・行方不明者を出した東日本大震災。発生から5年を迎える被災地で復興に情熱を傾ける人々の姿、再生に向けた足取り、災害の教訓を生かす取り組みをお伝えします。
    現場から

    この村で自然に寄り添い生きていく~大震災で考えた事

    宮城県南三陸町 農業・南三陸研修センター理事 阿部博之


     東日本大震災に伴う津波は肉親や友人たちの命を奪い、残された人々の運命をもて遊んだ。それは同時に、やせ衰え始めていた被災地の小さな町や村で、少子高齢化や農林漁業の不振といったいくつもの問題の所在を一気にむき出しにした。津波で町の中心部がほぼ壊滅した宮城県南三陸町の阿部博之さん(58)はそれでも、生まれ育った「村」で自然に寄り添ってこれからも生きていこうと思っている。あの惨劇をまがりなりにも乗り越えられたのは、「村社会だったからこそ」という思いが強いからだ。その阿部さんに、故郷の未来に寄せる思いを記してもらった。

    宮城県南三陸町 農業・南三陸研修センター理事 阿部博之

    炭とともに生きる暮らし

    • 米を収穫する阿部博之さん(アミタ持続可能経済研究所提供)
      米を収穫する阿部博之さん(アミタ持続可能経済研究所提供)

     2010年3月、私は炭窯作りをしていた。

     我が家の暮らしは、今なお炭によるところが多い。こたつは一年中ほぼ火を切らさない。真夏の一時期だけ火が絶える。七輪は煮物や魚を焼く時、活躍する。お湯を沸かすボイラーも最初に火をつけるのは薪だが、お湯を一定温度に保つために炭をくべる。とにかく今の生活に、炭は欠かせない物なのだ。

     実は以前使っていた炭窯が壊れて、それ以来、久しく炭を焼いていなかった。炭の在庫も乏しくなってきたし、今や地域に窯作りを指導できる人も数少なくなってきた。そんな危機感から、炭窯作りを開始したのだった。

     長老の指導を仰ぎ、地元の人たちの手を借りて、炭窯は数日がかりででき上がった。初窯というのは、火入れを慎重の上にも慎重にやらなければならない。なのに、火の勢いが強すぎて大失敗をした。窯が壊れたのだ。

     しょげ返る私を地元の人たちは「よくある失敗だ」と言って、2度目の窯作りも快く手伝ってくれた。情けないやら、申し訳ないやら。ありがたくて胸が熱くなった。そんな思いの詰まった炭窯が、11年3月11日に起きたあの大震災でまたも壊れてしまった。いまだに作り直しができていない。

     私はあの日、りんごのせん定作業をしていた。突然襲ってきた揺れに立っていられず、思わずりんごの木にしがみついた。予想されていた宮城県沖地震か? そんな事が頭をよぎった。

     しかし、この地震は尋常ではない。見えない所でとんでもない事が起きているに違いない。すぐに地元の消防団員として活動を開始した。

     地域住民の安否確認、避難所の開設、小学校児童の帰宅の手伝いなど、やることはいっぱいあった。だが、何をどうしたらいいのかわからなくなるほど、混乱していた。私が住む入谷地区は、大勢の人々が避難する場所となった。山あいに位置するこの地区は幸い津波被害から免れ、海沿いの地区から人々が逃げてきたのだった。

    2016年03月07日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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