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    計1万8000人を超す死者・行方不明者を出した東日本大震災。発生から5年を迎える被災地で復興に情熱を傾ける人々の姿、再生に向けた足取り、災害の教訓を生かす取り組みをお伝えします。
    現場から

    震災の記憶と「石巻人」の温かさ、英国人が発信

    石巻市復興まちづくり情報交流館中央館館長 リチャード・ハルバーシュタット


     東日本大震災直後、日本で暮らす外国人は在日大使館などを通じて母国から退避指示・勧告され、東京入国管理局の窓口には連日、日本を離れるための手続きをする外国人が殺到した。宮城県石巻市の石巻専修大学で 教鞭 ( きょうべん ) を執っていたリチャード・ハルバーシュタットさん(50)も母国イギリスから帰国勧告が出ていたが、自身の意思で石巻に残った。あれから5年。現在も石巻で暮らし、復興の様子を英語で発信しているハルバーシュタットさんに、外国人から見た石巻の「今」について寄稿してもらった。

    石巻市復興まちづくり情報交流館中央館館長 リチャード・ハルバーシュタット

    被災者という現実

    • リチャード・ハルバーシュタットさん
      リチャード・ハルバーシュタットさん

     全てが変わったあの日。2011年3月11日午後2時46分にマグニチュード9.0の揺れを観測した地震で発生した巨大津波は、私がイギリスから18年前に移り住んだ宮城県石巻市周辺の沿岸部を()み込んでいきました。津波の高さは8.6メートル以上。同時に私の人生も予定調和のレールが壊れ、全く予期していなかった方向へ向かうことになりました。

     地震の発生時、私は当時の職場である石巻専修大学の研究室にいました。経験したことのない激しい揺れの後、すぐ大津波警報が出され、私を含め、キャンパス内にいた教職員と学生は校舎の3階に避難しました。情報源はラジオしかありません。石巻の被害状況の情報を聞くことはできませんでした。

     その後、想像を絶するサイズの津波が押し寄せ市内の建物が水没したと知り、私は大学で寝泊まりするしかありませんでした。最初の2日間は誰もが同じだとは思いますが、私も不安に押しつぶされ、恐怖感におびえていました。

     幸いなことに大学には自家発電設備がありましたが、そこから見える石巻の街は停電のため暗闇のなかにあり、昼も夜も絶えず響くサイレンやヘリコプターの音が、空恐ろしさを増幅させました。

    • 大津波で水没した住宅地と火災で立ち上る白煙(宮城県石巻市で、本社機から。2011年3月12日撮影)
      大津波で水没した住宅地と火災で立ち上る白煙(宮城県石巻市で、本社機から。2011年3月12日撮影)

     3日目になって、友人が私に会いに大学のキャンパスまで来てくれました。お互いの安否が確認できて(うれ)しかったのですが、その一方で、私の永住権を申請するにあたり多大なる努力をしてくれた親友の高橋譲さんと奥さまが津波で亡くなったということを知らされ、悲しみに打ちひしがれました。

     その友人に、石巻グランドホテル社長の「ムーちゃん」(後藤宗徳さん)がホテルを避難所にしたと聞き、震災後初めて石巻の中心部に入りました。津波の浸水範囲は73平方キロ・メートルもあったため、その時点でもまだ水没している場所が多く、通れる道路も津波が残したがれきやヘドロで埋め尽くされ、ぐちゃぐちゃになっていました。「まるで戦場のよう」に変わり果てた石巻の街を見て、言葉が出てきませんでした。

     やっとのことでホテルにたどり着くと、ムーちゃんにホテルに移ることを勧められ、私の避難所での暮らしが始まりました。

     そして避難所の日常に慣れた数日後、私が今までの人生の中で最大の決断をしなくてはならない時がやってきたのです。

     3月17日、深夜0時47分、1通の携帯メールが届きました。

     “Dear Richard. Message from British Emb. Trying to reach you. If you receive this pls text or call 03-XXXX-XXXX. pls also advise any other number we can try you.” 【訳:リチャード様、イギリス大使館からのメッセージです。連絡を取ろうとしています。このメールを受け取ったら、03-XXXX―XXXXにメールもしくは電話をください。私たちがコンタクトを取れる、他の番号も教えてください】

     イギリス大使館からのメールは、私が住所などの情報を事前登録してあったので届いたと知らされました。単に自分の安否確認だと思っていたのですが、連絡した際に知らされたのは、「福島第一原発が危ない」ので「イギリスへの帰国を勧めている」ということでした。私が被災地にいるので、「迎えに来る」とも言われました。

     ショックでした。それまで目の前のことでいっぱいで、原発のことも石巻を離れることも一切考えていなかった私は、この話を聞いて非常に混乱しました。石巻は第二の故郷という気持ちと母国政府の避難勧告の板挟みに耐えかねて、友人たちに相談したのですが、全員に同じことを言われました。

     「お前が安全だと俺たちが分かったら、俺たちは安心するから、行きなさい。俺たちは大丈夫だし、リチャードはイギリスで募金でもして石巻の再生のために送ってくれよ。」

     大使館職員に仙台に連れて行ってもらい、そこで初めてイギリス政府の原発についての見解を知らされました。

     「帰国するか、石巻に残るか……」

    一晩中眠ることができずに下した決断は、「石巻に残る」。振り返ると思い出すのは、石巻で出会った人たちの温かさでした。

     例えば、石巻駅前の和食店「大もりや」の大森信治郎さんとは、年末年始も家に呼んでもらったりしたりと、早いうちから家族同様に過ごさせてもらっていました。私は両親を既に亡くしているので、より一層「家族の絆」を感じ、大事にしたいと思っていました。

     地元の青年会議所に入会し、多くの人と一緒にまちづくりに携わってきたことも大きかったと思います。人の親切さに触れ、「石巻人」としての感情がゆっくりと私の中で根を張り、枝を広げてきたようです。親切にしてきてくれた人たちが一番大変な時に、この街を離れることは私には到底できませんでした。

     自分の力が微々たるもので、何もできないだろうけれど、私は少なくとも彼らと一緒にいることができる。そのことにも意味があると考えたのです。

     「このままイギリスに帰ったら、一生自分のことを許せないだろう」とも思いました。命を落とした親友夫婦や、他に犠牲になった知人の分も頑張らなければという気持ちがあったのも事実です。

     翌日、仙台から石巻に戻ったら、友人たちは驚き、しかし温かく私を迎えてくれました。この決断によって、自分と石巻の友人たちとの絆がさらに深まり、言葉では言い表せないくらいになったと感じています。

     ますます自分が「石巻人」であると感じ、そこから石巻市の復興だけでなく、「自分の復興」が始まったと思っています。


    2016年03月15日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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