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フィギュア五輪会場、隣は元日系人収容所

収容所に入れられた経験を語るメリー・オオハラさん=鈴木竜三撮影
びっしりとベッドが並ぶ日系人収容所(ともに1942年、バンクーバー市図書館提供)
ヘースティングス公園の日系人収容所に設置された食堂(1942年、バンクーバー市図書館提供)

 【バンクーバー=山下昌一】12日(日本時間13日)の開幕まで1週間となったバンクーバー五輪で、日本人選手のメダルが期待されるフィギュアスケート会場の隣には戦前、日系人の強制収容所があった。

 終戦から65年。華やかな五輪の装飾が施され、その過去を知る人は少ないが、収容を体験した日系人は五輪を歓迎しつつ、平和の祭典の意義をかみしめている。

 バンクーバー市の中心部から東に約10キロ。広大な公園の一角に、今回の五輪でフィギュアスケートやショートトラックの会場となる「パシフィック・コロシアム」がある。

 市図書館の所蔵資料などによると、バンクーバーの西海岸に住んでいた日系人約8000人が1942年の半年間、公園内の展示場や厩舎(きゅうしゃ)に収容された。前年に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したのが引き金となった。当時は多くの日系人が漁師をしており、「海岸線の地形に詳しく日本側に協力する恐れがある」とカナダ政府に目をつけられたという。漁船や家を押収された上、次々とバスに乗せられた。

 カナダで生まれた日系2世のメリー・オオハラさん(80)もその一人だった。突然やって来た国家警察に、「24時間以内にスーツケース1個だけで出てこい」と命じられ、両親ときょうだいと一緒に家を出た。「政府と警察の言うことには逆らうな。日本人全体の恥になるから」と教えられていたため、おとなしく従ったという。

 女性と子供の居住施設には厩舎があてられた。オオハラさんはコンクリートの床にわらを詰めたクッションを敷き、ふんの異臭に耐えた。びっしりと並んだ2段ベッドを隔てるのは、垂れ下がった毛布だけ。自由は制限され、柵の間から白人の子供たちが公園で遊ぶのをじっと見つめていた。

 日系人はその後、さらに東に移動させられ、終戦までバンクーバーに戻ることはできなかった。全カナダ日系人協会の働きかけでカナダ政府が正式に謝罪したのは88年になってから。公園内の日本庭園には、記念の石碑も置かれた。

 「多文化国家」を掲げるカナダではほかの人種と結婚する日系人も増え、1世や2世の苦い経験を知る人は徐々に減った。オオハラさんの息子や娘も例外ではない。戦後は8年間を日本で過ごし、再びカナダに戻ったオオハラさんは「カナダに悪い気持ちは持っていない。五輪ではカナダも日本も応援します」と語り、「二度と戦争を起こさないよう歴史に関心を持ってほしい」と言い添えた。

 バンクーバーの街は五輪一色に染まっている。オオハラさんは今も、近くの日系人施設で、子供たちに戦争体験を語り続けている。

 ◆日系人の強制収容所=カナダ政府は1942年から、ブリティッシュコロンビア州に住む約2万2000人の日系人を沿岸から100マイル(160キロ)離れた内陸部に移住させた。初期に連行された人は一時、公園の強制収容所に入れられた。戦後、復帰が認められたが、家財を没収されたため、親族を頼って日本に戻った人も多くいた。

2010年2月6日14時36分  読売新聞)
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