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イノシシ 駆け巡る日本の野獣干支(えと)の動物十二種の内には、牛や虎や馬から竜までもがずらりと顔をそろえるものの、正月早々ニュースの主役を張れるのは、猪(いのしし)くらいかもしれない。今年も元日から愛媛・八幡浜市で数頭が15分間疾駆し、体当たりされた50―70代の4人がけが[1]、5日の北九州市ではパトカー5台に追跡された子猪が中学校に逃げ込み、大捕り物となった[2]。そのエネルギーたるや格別だ。 ◇ ◇
神戸の六甲山ろくの住宅地周辺には「街猪」がいるという。ごみ収集の日を覚え、定期的に現れる「曜日のわかる猪」も[3]。本来は一晩に数十キロ移動するほどの機動力があり、敏感で警戒心が強いために捕獲されにくく、また天敵もあまりおらぬため、縄文時代の昔から日本の野山に君臨してきた獣である。人家のごみあさりとは、いかにもスケールが小さく、いじましい。ちなみに「獣」「猪」「鹿」はいずれも「しし」と読める。いずれも「けもの」だ。「猪」と「鹿」を区別するために、「イ・の・シシ」「カ・の・シシ」の名が後から付いたらしい。猪は日本における「けもの」の代表格なのである。 明治の人はこの動物に、まだまだ太古の荒ぶる匂いを嗅ぎ取っていた。越前国(福井)で明治12年に撃ち取られた大猪の体内からは、刃先3寸(9センチ)ばかりの鏃(やじり)が出た。そこに「畑六郎左衛門尉時能」と彫り付けてある。これは540年前、南北朝時代のものだ、齢はおそらく千年近いだろうと猟師たちが畏怖している[4]。明治末年、上村第一艦隊司令長官は、巡航中に捕らえた猪一頭を鶴岡八幡宮に奉納した。部下の勇猛心を称揚するために以前納めた熊が死んだので、その代わりだという[5]。何やら縹渺(ひょうびょう)として、聖獣の趣すらある。丹波国では300キロ近い8本足のものが捕れ、人足3人が京都の料亭に担ぎ込んだという話も、古さびて味わい深い[6]。 仏教の摩利支天像は、猪に乗っている。悪鬼からわが身を隠してくれるとして武士の信仰を集めた。そして猪に乗った姿で有名な鎌倉武士が、仁田=にたんの=(新田)四郎忠常。彼は伊豆国仁田郷(函南町)の人で、旗揚げ以来、源頼朝に付き従った。舞台は1193(建久4)年5月に行われた富士の巻き狩り。「曽我物語」によると、鹿を待ち構えていた忠常の前に現れたのは「幾年ふる共しらざる猪」。背中には既に流れ矢が4、5本も突き立ち、猛り狂っていた。見守る主君・頼朝が「よしや、新田、よしや」と声をかけたものだから大張り切りで矢をつがえたものの、馬もろともに跳ね飛ばされてしまう。何のこれしきと後ろ向きに大猪に飛び移ると、尻尾の付け根を手綱に見立て、両脚で締め上げた。絵馬や神社の彫刻などによく見られる雄姿だ。烏帽子も沓(くつ)も切れ落ちる大童の奮闘のあげく、腰の刀で「肋骨二三枚かききり」、ついに鹿(しし)は「立ずくみ(立ち往生)」した。曽我兄弟仇討ちを目前に控えた日の間奏曲のような、カラリとした英雄譚の情景だ。忠常はのちに、山の神であるこの猪の「とがめ」により、謀反の嫌疑で無念の最期を遂げたという因縁話も添えられている。 降り積もる雪の音だけが聞こえるような大江戸の冬景色。橋のたもとに目をやると、大きく「山くじら」の文字が……歌川広重「名所江戸百景」の一枚、「びくにはし雪中」(安政5・1858年)に描き残された、獣肉料理「尾張屋」の店先である。古来「薬食い」と珍重され、風邪退治には一番とされる猪の肉。もう店をたたんだが、少し前まで神奈川・逗子駅近くにも猪を食わせる旅館があって、玄関先に数頭ぶら下がっていた。そばを通るだけで身内が熱くなったのを思い出す。島根・美郷町では、農作物の食害に悩んできた農家が反転攻勢、「山くじら生産者組合」を設立し、罠やオリで捕獲した猪を安くてうまい特産品とした[7]。青森・むつ市の脇野沢では、農業振興公社が飼育舎で育てた猪を、11月から3月まで出荷している[8]。ジビエ(野生肉)料理を飼育肉で提供するという新機軸。 ◇ ◇
民宿自慢のボタン鍋を食した記者の言葉を借りよう。「煮込んでもイノシシの肉は適度な弾力を失わず、なにより脂身が甘く、うまい。歯ごたえも独特で、強いて言葉で表現すれば、サクサクという感じだろうか」――“垂涎(すいぜん)の”というほかはない。(尾) ◇参照した記事 (2007年1月21日 読売新聞)
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