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    父の野菜思い出は「資産」

     これまで普通にできていたことが、年を重ねるにつれ、できなくなっていく。思い当たる方も多いでしょう。 

     兵庫県の島田礼子さん(53)(仮名)のお父さんは、家族のためにずっと続けていた野菜作りができなくなりました。 

     〈父(83)の生きがいだった畑仕事が終わりました。本人にとっては相当な喪失感だろうと思います〉 

     サラリーマンだった礼子さんのお父さんは定年後、近所で野菜作りを始めました。土地は地主さんの厚意により、無料で借りられたそうです。 

     〈父は、じっとしているのが嫌な性分で、地主さんに教わりながら、猛暑や冬の寒い時期も毎日、畑に行き、水やりや草抜きを続けました。春は豆類、夏はスイカやトマト、キュウリ、秋はナスや芋、冬は白菜や小松菜など、季節折々の野菜を収穫すると、いつも宅配便で届けてくれ、私たちは「おいしい、おいしい」と言って、いただきました。父にお礼を言うと、うれしそうに笑って「また、とりに来いよ」。成人した私の子供3人は、父の野菜を食べて大きくなったのです〉 

     野菜作りは20年以上続いたのですが……。 

     〈ここ数年は体力的にも畑仕事が大変になり、ついに今年、畑に行くのをやめてしまいました。母には「悔しいわ」とつぶやいていたそうです。車の免許を返上した後、使っていた電動自転車も今春、乗るのをやめました〉 

     礼子さんは、介護関係の仕事をしています。 

     〈日常的に高齢の方と接しているので、年齢とともにできないことが増えるのは頭では分かっていたつもりでも、自分の父のことだと、なかなか受け入れられませんでした〉と戸惑う心情を交えつつ、最後はこう記されていました。 

     〈今までよく頑張ってくれ、感謝の気持ちでいっぱいです。私にできることは、父と母に今まで以上に会いに行き、孫たちの成長と元気な姿を見せること。本当にありがとう〉 

     礼子さんの手紙を読みながら、先日、本紙の記事で作家の五木寛之さん(85)が話していた言葉を思い出しました。 

     人の一生を登山に例え、下山する過程こそ登山の醍醐味だいごみと説く五木さんは「高齢者にとって本当に大事な資産は、株でもキャッシュでもない。記憶の中にある無尽蔵の思い出ではないか。『ああ、あのときは幸せだった』と思えることが誰にも必ずあるわけで、その記憶を発掘し、人に語るたびに思い出が明瞭に豊かになっていく」とご指摘でした。 

     子や孫のために力を注いだ野菜作りの思い出を持つ礼子さんのお父さんは、大変な「資産家」と言えそうです。そういえば、来週17日は「父の日」。感謝の思いを伝え、思い出を語り合うには、いい日よりですね。(祝迫博) 

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    2018年06月10日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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