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    「18世紀日中間の貿易権紛争と『沈黙外交』」 人文科学研究所 岩井茂樹所長

     18世紀初頭、日本と清(中国)との間で激しい貿易摩擦が起きた。当時、両国には国交がなかったため、文書や使節のやり取りも行われていなかった。そのような状況下で、両国の交渉は正式な外交ルートではなく、水面下で行われた。それを私は、「沈黙外交」と呼んでいる。

    ◆「銀の流出防げ」 新井白石が始めた清との貿易制限

     17世紀中盤以降、日本はいわゆる「鎖国」政策を取り、諸外国との国交はなかった。しかし、生糸などの清の製品は日本にとって重要で、清船が長崎にたくさん来て、貿易を行っていた。

     長崎というと、一般的には出島でのオランダとの貿易を思い浮かべると思うが、オランダ船は年間2隻程度しかこなかった。一方、清船は最盛期には100隻程度が来航した。1708年には103隻も来たという記録がある。長崎での貿易は実質的に、清との貿易だったとも言える。

     長崎には、日本に長く住む中国人らが集まり、通訳として、清船と長崎の商人との取引を支えていた。彼らは「唐通事(とうつうじ)」と呼ばれた。1689年には長崎の商人が「唐人屋敷」を作った。来航した清の商人らは宿泊費を払い、そこに泊まった。最大で2000人くらい収容できたと言われている。

     長崎の商人には、唐人屋敷での宿泊代や食費なども懐に入り、非常にも潤った。だが、貿易の対価として支払った国産の銀がだんだん乏しくなってきた。それを問題視したのが、江戸幕府の政治に深く関わった儒学者の新井白石だった。あまり身分の高い家柄ではなかったが、学問の才能があり、中国、朝鮮、経済についての知識が広く、幕府で重用された。当時、清との貿易によって銀がどれくらい流出したかを推計し、それが日本の貨幣の鋳造に悪影響を及ぼしていると主張した。

     白石は、増えすぎた清船の来航を減らし、貿易による銀の流出を抑える政策に着手した。1715年に発令した「正徳新令」という法律で、清船1隻あたりの年間貿易額の上限を銀6000貫に抑える一方、「信牌(しんぱい)」と呼ばれる貿易許可証を、清船に発行する制度を始めた。

    ◆信牌の発行に動揺した清の商人

     信牌は、中国の公文書の形式をまねて作った漢文の文書で、「信牌を持っていない船には貿易は認めない」という趣旨の内容が書かれていた。長崎の奉行所が、通訳を経由して清船に配った。幕府は信牌の発行によって清船の来航を年間30隻に制限し、結果として貿易総額を抑え、銀の流出を減らそうと考えたのだ。それまで年間100隻くらい来ていたことを考えると、大幅な貿易制限だと言える。

     発行初年度の1715年に長崎に来た船は、割とたやすく信牌をもらえたらしい。だが翌年以降は、信牌の発行枚数が大幅に減り、入手できない清船が続出した。信牌を中国国内で売買するということもあったらしい。

     清国内では、信牌を入手できなかった商人が、入手できた商人を「日本に従い、清に背いた」と訴えて裁判を起こすなど、騒ぎが広がった。清の地方政府の間でも、対日貿易の縮小で税収が減ったことなどから、解決に乗り出す動きが出てきた。

     現在の浙江省や江蘇省にあたる清の地方政府は、地元の商人たちに命じ、信牌を持たない貿易船を十数隻、長崎に向かわせた。日本側に、信牌がなくても貿易させるよう、強引に認めさせようという策だった。しかし、日本側に貿易を拒否されて、失敗に終わった。

    ◆「沈黙外交」で貿易摩擦拡大を防いだ日中両国

     地方政府は次に、当時の康煕帝(こうきてい)に、一連の問題を報告する文書を、正徳新令の漢文訳と信牌の現物を添えて送った。「信牌の制度は日本による中国の主権侵害だ。税金も減って困っている」などと訴える内容だった。康煕帝は、財政などをつかさどる行政機関の「戸部」に、この問題にどう対処すればよいかを、地方政府と議論するよう命じた。

     地方政府は江戸幕府との正式交渉の開始を提案した。日本側に文書を送って信牌を撤回させ、その代わりに清政府が発行した証明書での貿易を認めさせようという考えで、戸部も賛成し、康煕帝に上奏した。

     だが、康煕帝はこの案を却下し、再審議を命じた。康煕帝は、この問題を大事件であるかのように報告してきたのが誤りだと断じた。その言葉が清の公文書に残っている。

     「信牌は、我が国と日本が商取引する時の民間の証明書に過ぎず、日本が我が国の地方官に与えた公文書などではない。清国内の商取引でも、商人どうしがそれぞれ証明書を確認している。信牌も似たようなものだ。それを重大事として扱ってよいものか」

     康煕帝がこう言ったのには、わけがある。実は、信牌の発行人の名義をよく見てみると、長崎奉行所など江戸幕府の役人ではなく、幕府とは直接関係のない長崎の通訳だった。つまり、形式上はあくまで民間の商取引の文書となっていたのだ。

     もちろん、信牌発行の背後には、江戸幕府の強い意向があった。だが、発行人を幕府の役人にしてしまうと、清を過度に刺激して、後々外交問題に発展する恐れがあると、新井白石は考えた。そこで、通訳を発行人とすることで、外交問題になるのを回避したのだ。 

     新井白石が「清の商人に言って聞かせるように」と、長崎の奉行所にあてて送った文書にも、「信牌は奉行所ではなく、通訳が渡したものだ」との文言がある。

     信牌が民間の許可証というのは詭弁(きべん)だが、そうすることによって江戸幕府は、清との貿易摩擦を最小限に抑えようとした。康煕帝も幕府の意図を正確に読み取り、地方政府などの主張を退け、摩擦の拡大を抑えた。

     この問題を巡っては、日本と清の間で公文書は1通も交わされず、外交使節の行き来もなかった。だが、幕府は、この問題に関する清政府の動きを、長崎に来た清の商人を通じて詳しく把握しており、清政府の公文書も入手していた。清側も同じように、商人を通じて、幕府の動きをつかんでいた。

     このように、正式な外交ルートがなくても、互いの思惑を正確に理解し、争いの拡大を防ぐという、当時の日清両国の姿勢には見習うべき点が多い。

     今の世界では、外交ルートがある2国間でも、言わなくてもよい余計なことを言い合って無益な争いをし、関係を悪化させるケースも見られる。今こそ、暗黙のうちに互いを理解し、共存を図るという「沈黙外交」の大切さを学びたい。

    □いわい・しげき□ 1980年京都大文学研究科修士課程修了。同大学文学部助手、京都産業大助教授などを経て、2001年に京大人文科学研究所教授。11年から現職。専門は中国近世史、東アジア関係史。

    ◆Q&A

    Q:信牌について学校で習った記憶はない。なぜだろうか

    A:歴史学とは、自分の国で誇りたいことは表に出すものだ。例えば、日本史で習う朱印船や朱印状の制度に関しては、朱印状をもらった日本の船(朱印船)が東アジアの各地に出かけて大々的に貿易をし、日本人町もできたというように、日本の海外進出と密接に関係するので、歴史教育で大きく取り上げられる。でも、信牌は、それに比べると特段誇るべきものでもないので、あまり注目されない。歴史とはそういうものだと私は思う。

    Q:正徳新令のポイントは、信牌を出すことだったのか

    A:清との貿易額を減らそうということは、実は正徳新令以前から何段階かでやってきたが、おそらくそれでは不十分だった。長崎の商人もなかなかしたたかで、正徳新令以前は密輸もかなりしていたようだ。一方、正徳新令の後では、信牌を持っていない船を追い返すだけでなく、九州や山口辺りに密貿易でやってくる清船を徹底的に打ち払うというようなこともペアで行い、貿易額を抑えた。信牌は正徳新令のポイントだが、決してそれだけではない。

    2013年03月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大阪本社社会部から
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