文字サイズ

    「痛みと再生の諸相―インド洋津波から2年を迎えたスマトラの経験を振り返る」 地域研究統合情報センター 西芳実准教授、山本博之准教授

     私たちは死者・行方不明者約22万5000人を出した2004年12月のインドネシア・スマトラ島沖地震の被災地で調査を行ってきた。今回は被災2年後の頃に、インドネシアの被災者が、どのように心の痛みと向き合ってきたのかを紹介したい。東日本大震災から2年が過ぎた今、私たちがそうしたことについて知ることは、復興のあり方を考える上でも意味があるだろう。

    ◆「つながり力」のある社会

     スマトラ島沖地震で被害の大きかったのが、同島北西部のアチェ州だ。面積は約5万8000平方キロ・メートル、人口は約430万人。面積は日本の東北6県とほぼ同じだが、人口は半分程度となっている。イスラム教徒が大半を占める。独立紛争のために長い間、内戦状態が続いたが、スマトラ島沖地震をきっかけに和解が成立した。

    • 西芳実准教授
      西芳実准教授

     当地の社会の特徴としては、流動性が高いことが挙げられる。住民の多くが毎年のように家を改築し、仕事もよく変わる。転職が多いことは、日本人の感覚では「飽きっぽい」と悪く評価しがちだが、仕事を変えることで手持ちの技術、友人が増えるなど、豊かになれると考えるようだ。

     スマトラ島沖地震とは別の地震の時だが、パーム油が取れるアブラヤシの実を出荷していた人たちに会った。被災によって普段通りに出荷できなくなったものの、これまで培ってきた人間関係を生かし、別の出荷先の工場や業者を探していた。いざという時の「つながり力」があると感じた。災害に備えるに際し、学ぶべき点と言えるだろう。

    ◆故人への思いと向き合う

     スマトラ島沖地震では、津波で多くの遺体が流され、被災直後は誰の遺体がどこにあるのかわからない状況になった。

     イスラム教では、死後24時間以内に白い布でくるんで清めてから埋葬するが、身元が分からないまま集団埋葬された。「大人の遺体」などと書かれた看板だけで、墓碑もなかった。

     津波の犠牲者は戦場で亡くなった殉教者と同じで、清められなくても仕方がないという判断だったようだ。だが、個々の被災者は、きちんと弔えなかったという思いを抱えていた。

     被災者の生活が落ち着くと、遺体を掘り出して埋葬し直す遺族もあった。墓地を訪れると、遺体が見つからないのか、埋葬用に掘られた穴だけが残る一角もあった。「いつか弔う」という思いを抱えながら生きるという決意を感じた。

    • 山本博之准教授
      山本博之准教授

     外国の支援で建てられた復興住宅を、土産物販売店に改装した被災者もいた。子供服やお菓子などを並べ、店の奥には遺影が掲げられていた。

     災害で家族や知人を失ったり、長年過ごしてきたふるさとの景色が変わったりすると、それまでの人生を振り返る手がかりがなくなる。どのように生まれ育ち、どんな人と付き合ってきたのかという「個人の物語」が失われ、大きな喪失感を抱くことにつながる。

    ◆「物語」の修復へ

     そうした被災者の手助けにならないかと、私たちはアチェ州の州都・バンダアチェの被災当時や現在の様子をインターネット上に記録し、携帯電話などの端末でも見られるようにする「津波モバイル博物館」に取り組んでいる。

     まちの様子がどのように変わってきたか、地元の人も世界中の人も簡単に分かる。これを見て、現状をもっと知ろうと被災地まで足を運ぶ海外の人が増えれば、経済的な復興の後押しにもなる。

     また、個人の思いをくみとるため、被災体験など人生の様々な話をタイプライターでつづってもらい、記録として残すプロジェクトも進めている。

     ある年齢より上の世代は、パソコンでの入力は難しく、電気料金も高いので、タイプライターが適しているようだ。人生経験が豊かで、自分のことを語りたいと話してくれた人に貸し、半年に一度、原稿を受け取っている。

     私たちの取り組みを、数値化できない被害や事情を考えるきっかけにしたい。最新技術などを活用しながら、いろいろな方法で語り継ぐことが大事だ。地元の人たちの気持ちをくみ取りながら、失われた物語の修復につなげていきたい。

    □にし・よしみ□ 2007年東京大大学院総合文化研究科博士課程修了。同研究科助教や立教大助教などを経て、11年から現職。専門はインドネシア地域研究、アチェ近現代史。

    □やまもと・ひろゆき□ 2003年東京大大学院総合文化研究科博士課程修了。東大非常勤講師や国立民族学博物館助教授などを経て、06年から現職。専門はマレーシア地域研究、現代政治史。

    ◆Q&A

    Q:社会の流動性が高いのは驚きだ。先祖代々の土地に固執する日本社会と、なぜこんなに違うのか。

    山本:流動性は、日本でも時代や住む場所によって違うかも知れない。2004年の新潟県中越地震では、移住を余儀なくされた山古志村の被災者の中で、出て行こうとする人と帰ってこようとする人が、ほぼ同じぐらいの割合だったと聞いた。

    西:日本でも人の移動はあるが、故郷を捨てたなどネガティブに捉える所がある点が違う。東日本大震災でも、実際に避難すると「故郷を捨てた」と言われるケースがあった。自由に動いてもよいとしないことは、私たちを不自由にしていると考えた方がいいかもしれない。

    Q:アチェ州は、皆でまとまって集団移転しようと考えるような社会か。

    山本:メンバーの入れ替わりが多い社会では、過去の経験が共有されず、ものごとを決めるのが難しい。どのように情報を共有して、決断し、どう受け入れるかを考えなければならない。日本では顔を見れば分かるというところがあるかもしれないが、流動性の高い社会では話さないと分からない、となる。流動性に対応した臨み方は大事だ。

    Q:集団埋葬は津波被害の時だけ行われたのか。

    西:アチェ州では非常に新しい考え方で、初めて行った試みだった。津波の前の内戦では、国軍側とゲリラ側に分かれて戦っており、多くの人が亡くなったが、内戦の犠牲者として弔われることはなかった。遺族が弔いに行くのは、自分の身内がどちらかの勢力に殺されたことを認めることになり、敵対する勢力に狙われる危険があったためだ。遺族は周囲に語ることもできなかった。津波被害者への対応は、身元不明の遺体を社会できちんと弔おうとすることができなかった課題に対応しようとしたものだと考えている。

    Q:身元不明遺体を埋葬する前に写真はとらなかったのか。

    西:事実上できなかったのが実情だ。最大の課題は、まちの中にあふれた遺体をどこに移すのかということだった。それだけで2か月かかった。遺体がどんどん傷む中、保管する場所もなかったので、そのまま土の中に埋めていく形になった。

    2013年04月29日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大阪本社社会部から
    リンク