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    「異端」えらいやっちゃ

    自由に楽しく ♪ 踊らな損々

    • 「自由に時代の息吹を取り入れてきたのが阿波おどり」と話す米沢(中央、東京都武蔵野市で)=山本高裕撮影
      「自由に時代の息吹を取り入れてきたのが阿波おどり」と話す米沢(中央、東京都武蔵野市で)=山本高裕撮影

     頭の上で手をひらひら。つま先で地面をつんつん。特徴ある動きで何とか「阿波おどり」とわかる。ただ米沢渉(29)の動きは、極端に激しい。電気ショックを受けたように身を震わせ、ジャンプする。片足を手で持ち上げ、器械体操さながら「Y字バランス」を披露する。「もはや阿波おどりではない……」とされる型破りなスタイル。プロの阿波おどりパフォーマーになって2年が過ぎた。

     東京生まれの東京育ち。父親が徳島出身で、幼い頃から親しんだ。小4のとき、父親が阿波おどりグループ「寶船たからぶね」をつくった。練習場所は夜の学校の体育館。特別な感じがして、わくわくして参加した。イベントで優秀賞をもらうと、うれしかった。

     だが学年が上がるにつれ、友達の反応が冷たくなった。「かっこ悪いじゃん」。足袋をはいて、古くから伝わる踊りを続ける自分。笑われている気がして、次第に熱が冷めていった。

     代わって中学の頃から夢中になったのが、父親が趣味で弾いていたギターだった。海の向こうで生まれた音楽はかっこよかった。フォークギターをエレキに持ち替え、ローリングストーンズの曲をコピーした。

     19歳で友人とバンドを結成、ライブハウスで演奏を始めた。悲しみの中に希望の火をともす歌詞。ブルース調の曲に乗せて歌うと、全国ツアーができるようになった。サングラスをかけ、寡黙なロッカーを演じた。

     2010年9月、人気バンド「憂歌団ゆうかだん」でボーカルを務めた木村充揮あつきと共演した。木村は雲の上のブルースマン。打ち上げでこんな話を聞いた。

     「ブルースってな、ただの音楽のスタイルやないんや。『おいらはこんな人間や』っていうのを、今この瞬間に鳴らすことなんや」

     ひょうひょうとした人柄と裏腹に、言葉は熱っぽかった。振り返って自分はどうだ。アメリカ南部の黒人が魂を込めた音楽をまねて、かっこをつけているだけじゃないのか。

     その頃、バンドはメンバーが入れ替わり、一体感が失われていた。歌づくりにも限界を感じていた。このまま音楽を続けるのか、やめるのか迷いが生まれた。

     それから半年が過ぎた11年3月、ハワイで開かれた各国のお祭りを集めたイベントで、阿波おどりを披露する機会があった。音楽活動を続ける傍ら、かつての仲間と時々、ステージに立っていた。

     舞台は海岸近くの路上。始めると観客も体を動かし始めた。「ブラボー」。その声で子供の頃、夢中で踊り、拍手を浴びて心を熱くした記憶がよみがえった。人の目を気にして、好きな踊りを「かっこ悪い」と決めつけていた自分。自分を隠し、うじうじしていた過去を恥じた。「やっぱ阿波おどりでいいじゃん」

     その年の暮れにバンドを解散。翌年10月、プロの道を歩み始めた。生活の不安はあったが、「中途半端にやって後悔したくない。阿波おどりで世界を回る」。

     現在、グループ「寶船」の中心的存在。ライブハウスやホールで、阿波おどりをベースにした創作踊りを披露する。企業のイベントにも花を添える。年間ステージは200を数え、アメリカやフランスにも活躍の場を広げる。

     今でも愛するロックをバックに踊る。「異端」と呼ばれることもある。それでも、伝統を自由な風にさらし、一段と楽しめるように工夫した踊りは、ウソのない自分を感じてもらえる格好のスタイルだ。贅沢ぜいたくできる収入はなくても、自分に胸を張れる今がある。

    (敬称略)

    (中谷圭佑)

     阿波おどりが徳島以外で広く演じられるようになったのは戦後になってからだ。特に有名なのは、東京・高円寺の阿波おどり。商店街の活性化策として1957年に始まった。当時の東京ではなじみがなく、白塗りの化粧をして踊っていたという。60年代以降には、高円寺の踊り手たちが、徳島に阿波おどりを学びに行くなどして技術が向上。現在は2日間の期間中に約100万人が訪れる。ほかにも、東京・下北沢や、埼玉県越谷市、神奈川県大和市など関東を中心に、阿波おどり大会が開催されている。

    2015年04月12日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    大阪本社社会部から
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