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    ロンドンと東京、英国と日本。遠く離れた二つの地を、酒と人の物語でつなぎます。
    イギリスのかたち

    二つの帝国(下)…ロンドンでローマを想う

    ローマに学べ

    • ロンドンに残るローマ時代の城壁跡
      ロンドンに残るローマ時代の城壁跡

     目黒・権之助坂のパブ「ザ目黒タバーン」で古代ローマ史が専門の歴史家、本村(もとむら)凌二(りょうじ)氏(68)に3時間にわたって、ローマとイギリスの関係を聞いた。居酒屋で天下国家を論じるのも一興だが、パブで拝聴するローマ史の「講義」も味わい深い。

     ロンドンは、ローマを研究するのに最適だと本村氏は言う。ローマ、ギリシャに関する大量の文献がロンドン大学(UCL)の図書館にあるからだ。「東大の西洋史、古代史の部屋でもせいぜい何千冊ですけど、何十万冊もがルールに(のっと)って整理されている。システムさえ頭に入れば、『あの本なら、どこの棚』と想像がつきます」

     イギリスはローマから多くを学んだ。情報の生かし方もその一つ。「広大な領土を支配するには、お金をかけて情報を大量に集め、常に整理しておかなければ、いざというときに使えない」。だからローマに関する大量の文献が収集、整理されている。

     ローマが自国の周囲に領土を拡大していったのに対し、海上覇権を握ったイギリスは自国から遠く離れた植民地を築いた。タイプの異なる帝国だが、広大な地域を支配するやり方には共通点もある。

     現地の言語や文化を尊重し、寛容さをもって支配にあたるローマの伝統がお手本とされ、「分割して統治せよ」という格言も引き継がれた。支配下にあるAという国家とBという国家があったとき、AとBを結びつけさせず、個別に取り決める。『国家の盛衰』(渡部昇一、本村凌二著)で本村氏は、イギリスによる植民地インドに対する徹底的な分断統治(divide and rule)は、ローマにならったと指摘した。

     もっとも分断統治は現代では通用しない。「通信技術が発達すると、情報が筒抜けになり、ダブル・スタンダードの矛盾があきらかになっていくんです」

    大ベストセラー「衰亡史」

    • 「ロンドンはローマのことを調べるのに便利な場所」と語る本村氏(ザ目黒タバーンにて)
      「ロンドンはローマのことを調べるのに便利な場所」と語る本村氏(ザ目黒タバーンにて)

     18世紀後半に刊行された『ローマ帝国衰亡史』全6巻は、大帝国の繁栄と衰退を描き、大ベストセラーとなった。著者のエドワード・ギボンは、大陸周遊の「グランド・ツアー」で訪れたイタリアで執筆を思い立った。欧州の各都市を巡り、各地の文化や人々に親しむことは、英国紳士としての教養を身につける教育の総仕上げ。なかでも、欧州文明発祥の地であるローマの遺跡があるイタリアは必見の場所だった。

     「ローマとイギリスの接点は、かつてローマの属州だったということより、大英帝国を築き上げる過程で、イギリス人がローマ帝国を強く意識したことにありました」

     5世紀にローマの支配が終焉(しゅうえん)した後、ブリテン島にはアングロサクソン、ノルマンが大陸からやってきて、キリスト教が広がっていく。それまで強い影響下にあったフランスと距離をおき、イギリスらしさが明確になっていくのは、16世紀にヘンリー8世がローマ教会に反発し、英国国教会(アングリカン・チャーチ)の制度を作ってからだ。

    • ローマ帝国の栄光を今に伝える円形闘技場・コロッセオ(ローマ市内で)
      ローマ帝国の栄光を今に伝える円形闘技場・コロッセオ(ローマ市内で)

     「衰亡史」1巻の刊行は、イギリスの植民地だったアメリカが独立した1776年。「『我々もローマと同じように落ちぶれて行くんじゃないか』との不安がうまれ、ローマへの関心が強まったのかもしれません」

     ヨーロッパの知識人はラテン語や古典文学を教養ととらえ、ローマに学ぶ姿勢を持ち続けたが、イギリス人は特に政治や支配システムに目を向けた。「それはイギリス人の現実主義的なところ。そのとき必要な事をやればいいというスタンスです。建物は必要な改築を繰り返す。憲法もないですし、ケース・バイ・ケースで物事にあたるんです」

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    2015年05月19日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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