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琉球貿易を独り占め〜島津義久(1533〜1611)

イラスト・すずきたける

 島津氏は鎌倉時代以来の名族で、初代忠久が元暦2年(1185年)に、源頼朝から島津荘の下司職(げししき)(荘園の管理責任者)に任命されている。島津荘というのは、薩摩・大隅(ともに鹿児島県)両国と日向国(宮崎県)にまたがる8000町歩を超す大きな荘園であった。

 戦国期、傍系の伊作(いざく)島津氏に忠良(ただよし)が出て、忠良の活躍によってその子貴久が宗家(そうけ)を継ぐことになり、貴久の子どもたちの時代に島津氏は大きな飛躍をとげているのである。

 ふつう、戦国大名家では、兄弟争いを未然に防ぐ目的もあり、男子が何人かいると家督を継ぐ予定者1人を残し、あとは養子に出したり、寺に入れたりしていた。ところが貴久は、4人の男子、具体的には長男義久、次男義弘、三男歳久、四男家久を手もとで育てた。しかも4人兄弟の結束力は強く、4人の軍団長ができた形となった。

 長男義久は幼名を虎寿丸(とらじゅまる)といい、13代将軍足利義輝から義の1字を与えられ、義久と名乗り、永禄9年(1566年)に家督を継いでいる。以後、4兄弟が力を合わせて日向の伊東氏と戦い、伊東氏を支援する大友宗麟(そうりん)を日向・耳川の戦いで破っているが、そこで活躍したのは長男義久と次男の義弘だった。さらに天正12年(1584年)肥前(長崎県)沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺(りゅうぞうじ)隆信を破ったのは四男の家久であった。

 4兄弟の結束によって、九州全土をほぼその支配下に置くことになったわけであるが、そうした軍事行動を可能にしたのが琉球貿易だった。義久は琉球貿易の権限を一手に握っていたのである。

 この頃、琉球との貿易を独占することは、中国・明との貿易による利益を得られることを意味した。

 当時、明は海禁政策をとっていて、直接、日明貿易という形を取ることはできなかった。一方、琉球は一つの独立国で、明と朝貢貿易を行い、朝貢したお返しの品が明から琉球に下賜される形の貿易をしていた。その品が、今度は日本と琉球との貿易によって日本に渡ってきていたのだ。

 制限された貿易ではあるが、絹・砂糖・染料の蘇木(そぼく)の輸入を一手に引き受け、義久がもうけを独占したことが、戦国大名島津氏の財政基盤を固める決定的要因となったのである。

お知らせ:次回は3月22日掲載、徳川家康の予定です。

2012年2月16日  読売新聞)
プロフィール
小和田哲男  (おわだ・てつお)
静岡大学名誉教授
1944年、静岡県生まれ。専門は日本史、特に戦国史研究。今川氏家臣団の研究などで知られ、主著に「今川義元」「戦国の城」。
小和田さんの写真


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(2012年5月22日)[全文へ]

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