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    焦土切り取る 市民の目

     71年前の夏、下関空襲直後の姿を、憲兵に逮捕される危険を顧みずカメラで記録していた市民がいた。山口県下関市内で写真店を経営していた上垣内かみごうち茂夫さん(当時43歳)だ。

    • 上垣内茂夫さんが決死の覚悟で撮影した空襲後の下関市中心街。蔵や石灯籠の手前には2人の子供が見える。亀山八幡宮を背に、北方向を撮影した一枚とみられる
      上垣内茂夫さんが決死の覚悟で撮影した空襲後の下関市中心街。蔵や石灯籠の手前には2人の子供が見える。亀山八幡宮を背に、北方向を撮影した一枚とみられる

     朝鮮半島と結ぶ関釜連絡船が発着する活気ある時代。同市は戦時物資の輸送拠点で、要塞地帯法が適用され、市民が空襲被害を撮影すれば利敵行為とされ拘束された。

     何が彼を駆り立てたのか。残された18枚を保管する長女の照子さん(83)はこう語った。「父が命がけで撮ったものばかり。戦争をなくす努力と、平和は自分たちで考えていかねばならないというメッセージだったのでは……」

    • 長女の上垣内照子さん
      長女の上垣内照子さん

    • 上垣内茂夫さんが現像液や印画紙などの写真材料を入れていた自宅物置があった場所。石垣が当時の面影を残す。照子さん(右)はこの階段を登り王江小学校に避難した(山口県下関市で)
      上垣内茂夫さんが現像液や印画紙などの写真材料を入れていた自宅物置があった場所。石垣が当時の面影を残す。照子さん(右)はこの階段を登り王江小学校に避難した(山口県下関市で)

     破壊された街が写っているだけではない。焼け残った蔵や石灯籠の周辺にいる2人の子供の姿からは、懸命に生きようとする思いが伝わってくる。

     高射砲や監視所が置かれた丘や山の入った写真に、軍部は特に神経をとがらせていた。しかし、焼け野原の背景に関門海峡を挟んで福岡県門司市(現・北九州市門司区)の風師山かざしやまが写る写真もある。撮影が見つかれば即逮捕されていただろう。

     空襲の写真は戦果を確認するために米軍が撮影したものか、治安のために警察が撮ったものがほとんどで、一般市民が街を歩き回って撮影したものは極めて少ない。

     上垣内さんが撮影した18枚が一部の人々に知られるようになったのは、亡くなってから5年後の1985年、野村忠司・元市立図書館長が自費出版した下関空襲の証言記録集『カンナ炎える夏』に掲載されてからだった。

     照子さんが聞いた撮影方法によれば、目立たない褐色の布をまとう。首から下げたカメラを隠して撮影場所を決めると、頭からすっぽり布をかぶったままファインダーをのぞく。「ローライコード」というドイツ製の二眼レフカメラで撮影すると、中判のネガから焼き付けた。どのプリントも解像度が高く精緻だ。

     上垣内さんが空襲跡を撮ったことを照子さんが知ったのは、終戦の翌月。避難先の一室で、焦土の下関を捉えた半乾きのプリントが何枚も布の上に置かれていた。

     「お父さんがなぜこれを撮ったか分かるか」。若い頃横浜で遭遇した関東大震災の悲惨な現場を伝える証拠を残せなかった悔しさが忘れられず「今度こそ」と思ったようだ。

     照子さんは、父が写真に託した心を今もかみしめている。

    (写真と文・編集委員 秋山哲也)

    • 上垣内茂夫さん。1980年に亡くなった。首からかけているのが戦禍を記録したカメラ
      上垣内茂夫さん。1980年に亡くなった。首からかけているのが戦禍を記録したカメラ

    • 上垣内さんが高台から撮影した写真。焼け跡にレンガ造りの蔵(左)が写っている。後方中央は亀山八幡宮。関門海峡越しに見える左の山は、日本軍の監視所があった風師山
      上垣内さんが高台から撮影した写真。焼け跡にレンガ造りの蔵(左)が写っている。後方中央は亀山八幡宮。関門海峡越しに見える左の山は、日本軍の監視所があった風師山

    • 早野博夫(ひろかず)さん(89、右)宅にあった蔵は、今も下関市宮田町に残っている。「自宅は焼けたが、ぬれた毛布をかぶり山中に逃れたので助かった。自宅裏の高台に逃げた多くの人が命を落としたのが残念です」。左は妻の寿子(ひさこ)さん(83)
      早野博夫(ひろかず)さん(89、右)宅にあった蔵は、今も下関市宮田町に残っている。「自宅は焼けたが、ぬれた毛布をかぶり山中に逃れたので助かった。自宅裏の高台に逃げた多くの人が命を落としたのが残念です」。左は妻の寿子(ひさこ)さん(83)

    • 上垣内茂夫さんが71年前に撮影した空襲後の下関市中心部。山陽百貨店(左後方)や下関警察署(その右)、山陽ホテル(右後方)が見える。関門海峡(後方)に面し関釜(かんぷ)連絡の発着港もあった。手前は商店や旅館が集まっていた現在の豊前田町や細江町界隈
      上垣内茂夫さんが71年前に撮影した空襲後の下関市中心部。山陽百貨店(左後方)や下関警察署(その右)、山陽ホテル(右後方)が見える。関門海峡(後方)に面し関釜(かんぷ)連絡の発着港もあった。手前は商店や旅館が集まっていた現在の豊前田町や細江町界隈

    • 上垣内茂夫さん撮影の上の写真とほぼ同じ位置から撮影した現在の光景。ビルが林立し関門海峡はほとんど見えない(山口県下関市で)
      上垣内茂夫さん撮影の上の写真とほぼ同じ位置から撮影した現在の光景。ビルが林立し関門海峡はほとんど見えない(山口県下関市で)

    • 焼け野原となった現在の入江町や細江町の界隈。高射砲が置かれた丘も中央に写っている
      焼け野原となった現在の入江町や細江町の界隈。高射砲が置かれた丘も中央に写っている

    • 上の写真とほぼ同じ方向を、王江小学校から見下ろした写真。上垣内茂夫さんは1945年7月2日、校庭隅の倉庫に避難していたときに、米軍機からの焼夷弾投下を受け、倉庫が全焼する前に脱出。九死に一生を得た
      上の写真とほぼ同じ方向を、王江小学校から見下ろした写真。上垣内茂夫さんは1945年7月2日、校庭隅の倉庫に避難していたときに、米軍機からの焼夷弾投下を受け、倉庫が全焼する前に脱出。九死に一生を得た

    • 空襲がひどかった下関市唐戸町や南部町のあたり。左端には亀山八幡宮が見える。現存する丸いドームが特徴の秋田商会ビルや、空襲中も観測を続けた下関測候所(丘の左)が遠くに見える
      空襲がひどかった下関市唐戸町や南部町のあたり。左端には亀山八幡宮が見える。現存する丸いドームが特徴の秋田商会ビルや、空襲中も観測を続けた下関測候所(丘の左)が遠くに見える

    • 上の写真とほぼ同じ方向に見える中之町や唐戸町、赤間町の界隈。亀山八幡宮(緑色の屋根)はビルの谷間となってしまった
      上の写真とほぼ同じ方向に見える中之町や唐戸町、赤間町の界隈。亀山八幡宮(緑色の屋根)はビルの谷間となってしまった

    下関空襲
     日本海軍の重要航路である関門海峡の封鎖や 兵站 ( へいたん ) 基地だった下関を破壊するために米軍が行った空襲。1945年6月29日と7月2日の2回、B29戦略爆撃機から 焼夷 ( しょうい ) 弾を投下するなどして、計324人(下関市史による)が犠牲となった。

    要塞地帯法
     旧陸海軍が1899年、東京湾、広島湾、下関を含む関門海峡一帯などを軍事拠点に指定した法律。下関には要塞司令部が置かれ、海峡を見下ろす丘には、高射砲も置かれた。写真撮影は禁止され、日本軍の潜水艦が海峡を航行する時は黒のカーテンを引くよう命じられた小学校もあった。
    2016年10月17日 15時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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