父の戦争 母の終戦

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制作・著作 読売新聞

71年前のあの戦争。異国の戦地で父たちは何を見たのか。母たちはどんな思いで銃後を生き抜いたのだろう。悲惨なその体験は今、子や孫の世代にどう伝えられ、語り継がれようとしているのか。―読売新聞朝刊で連載中

腹話術師 いっこく堂さん 53歳

数年前、沖縄育ちの僕は人から沖縄戦について尋ねられ、初めて両親に聞いてみました。

たくさんの人が死んでいくのを間近で見たそうです。それが日常になると、何も感じなくなった・・・と言います。おそらく自分が今を生きるだけで精いっぱいだったのでしょう。

漫画家 おざわゆきさん 51歳

父がシベリアに抑留されていたことを、高校3年生のときに初めて聞きました。大学生だった父は1945年1月に招集されました。満州で終戦を迎え、4年間、ソ連の収容所で強制労働をさせられました。

その後、私は漫画家になり、父の体験のことは何十年も気持ちの奥にありました。そして書き上げたのが「凍りの掌」です。

エッセイスト・作家 阿川佐和子さん 62歳

父は海軍について作家として書いてきた人間なので、阿川家では同世代の友人に比べると、戦争について聞かされた方だと思います。

一度は命の覚悟をしたかもしれない戦争で多くの同僚友人を亡くし、復員した広島は焼け野原でしょう。しかも戦後、価値観は百八十度転換し、父はつらかったと思います。

三味線放談、喜味こいしの次女 喜味家たまごさん 59歳

物心ついた頃から知っていましたよ、父、喜味こいしが広島で原爆に遭ったことは。被爆のこと、家族は知っていましたが、外に向いて言わなかった。人を笑わす漫才とギャップがあり過ぎると考えたんでしょう。

その日の朝、マグネシウムが発光したみたいな、赤茶けたような、パアーッとした光を見て、あ、爆弾落としよった、逃げな、と思ったそうです。

画家 諏訪敦さん 48歳

難民収容所があったハルビン郊外の地は、地形も町並みも変わっていて、祖母が埋葬されたとおぼしき場所に行き着くまで、ずいぶん迷ってしまいました。

今年1月、新たな絵に着手し、3月に完成したのが「HARBIN 1945 WINTER」。満州の雪原に横たえた祖母の亡きがらを描いた、絵です。最初は豊かな黒髪の、健康な女性を描いたのです。そこから少しずつ痩せさせ、病気の症状を再現していきました。

永井隆記念館長 永井徳三郎さん 50歳

祖父の永井隆は戦時中、長崎市の長崎医大(現長崎大医学部)で物理的療法科の助教授として、レントゲン撮影に従事していました。

隆は医大を拠点に同僚の医師や看護師と負傷者の手当や遺体の埋葬に走り回り、自宅に戻ったのは原爆投下から3日目だったそうです。家は跡形もなく、台所だったあたりに黒い塊を見つけました。焼けただれた十字架付きのロザリオの鎖と、炭化した骨。それは緑(隆の妻)でした。

スポーツジャーナリスト 増田明美さん

始まりは1枚の写真でした。いつも家族でいく熱海で父の武雄が、全員で写真を撮るんだとセルフタイマーにいやにこだわっていて。どうしてなんだろうって思って聞いたら、今度島に行っておじいちゃんに報告する、その時持って行くんだと。2年前の正月でした。

生後100日ほどの武雄をおいて出征した祖父。私も実家にある遺影でしか知らなかった。お土産にもらった貝のペンダントは、祖父を感じられる気がして、お守りにしています。

作家・精神科医 帚木蓬生さん

父、森山正之は憲兵でした。内地で憲兵の任務は主に軍紀・思想の取り締まりですが、戦地の憲兵の任務は諜報。香港人になりすまし、密偵を使い、敵情を探る。通信傍受、人の拘束や拷問など、情報を得るためには何でもしたようです。

父の戦争は戦後も続いていたのです。逃亡して、命からがら帰ってきて、また恐れおののいて逃亡。周りは敵です。「お国」に尽くした憲兵が戦犯として「お国」に見捨てられたのです。

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