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    「人類は原虫病を克服できるか?したたかな単細胞との戦い」

    井上昇 帯広畜産大学原虫病研究センター長

     近年、日本で感染症によって死ぬことは少なくなったが、安心してはいけない。原虫病も感染症の一つだ。

     私は帯広畜産大で家畜やペットの原虫病の研究をしている。人間の病気の研究も重要だが、家畜が病気にかかれば生産性が落ち、ペットの場合も人間生活への影響が大きい。これまで十分な対策は取られず、ほとんど研究されてこなかった。

     単細胞生物の原虫は、動物性真核生物のうち、カビに属さない生物の総称で、ミドリムシも原虫だ。世界で約6万5000種類が確認されており、ほとんどは寄生や感染をせず人畜無害で、一部が悪さをする。大きさは100分の1ミリで、同じ感染症を引き起こす細菌(1000分の1ミリ)やウイルス(1万分の1ミリ)に比べて大きい。

     市販されている抗原虫薬は、人や家畜に強い副作用を及ぼすものが多い。原虫病は薬の開発が非常に難しい。免疫は、外から侵入した病原体などの有害な物質(抗原)を攻撃し、排除する。体内では抗原に対抗できる特定の「抗体」が作られる。抗原にくっつき、それを別の細胞が食べる「抗原抗体反応」が行われている。ワクチンは、この免疫反応を促進させる薬だ。インフルエンザワクチンや抗生物質などがそうだ。ところが原虫は、細胞表面の分子構造を頻繁に変化させて抗体の攻撃を避ける仕組みがある。さらに、ある種の原虫は、免疫反応の影響を受けないためワクチンが作れない。

     代表的な原虫病に「アフリカ睡眠病」というのがある。ロベルト・コッホという著名な細菌学者が、ウガンダのジンジャ村でかつて撮った写真(図1)は、睡眠病が流行した様子がよく分かる。睡眠病を引き起こすのはトリパノソーマという原虫で、人と家畜に感染し、重篤な症状をもたらす。牛の血液中から検出される。大きさは30マイクロ・メートル(マイクロは100万分の1)程度で、鞭毛(べんもう)を持ち活発に泳ぎ回るのが特徴だ。

     睡眠病は2期に分かれる。初期はトリパノソーマが血液中で増殖して、発熱や倦怠(けんたい)感などが現れる。風邪のような症状で睡眠病と分かりにくい。後期はトリパノソーマが脳内まで侵入し、夜は眠れず、逆に昼間に眠くなるなど生活リズムが狂って精神に異常をきたし、昏睡(こんすい)状態となって死に至る。何も手を打たなければ助からない怖い病気だ。

    トリパノソーマは全世界に分布していて、アフリカではツェツェバエが媒介する。雌雄とも、服の上からでも刺せるほど強力な針で人や動物の血を吸う。刺された跡も1週間ぐらいで消えるため、診断は難しい。

     家畜がトリパノソーマに感染すると「ナガナ病」になる(図2)。餌を食べても太らず、乳量も減り、流産を起こす。アフリカでは睡眠病とナガナ病が常在し、感染リスクのある人は6000万人、牛で約5000万頭と推計されている。ナガナ病による経済損失は年間4750億円と言われ、深刻な被害を与えている(図3)。

     トリパノソーマが引き起こす病気に、東南アジアや中南米などで横行するスーラ病という原虫病がある。これはアブが媒介する。馬の場合は「こう疫」と呼ばれ、交尾を通じて感染する。ハエやアブが媒介しないので、寒い地域でも蔓延(まんえん)する。シベリアやモンゴル、中国などで家畜に深刻な被害をもたらしている。

     トリパノソーマの細胞表面は厚く、電子顕微鏡でみると、ボウリングのピンに似た形のたんぱく質がよろいのようにびっしりと並んでいる。このたんぱく質の分子構造が変異するため、抗体による防御反応が効かず、効果的なワクチンが作れない(図4)。

     トリパノソーマによる原虫病は、マラリアに次いで被害の多い病気だが、現在の薬のほとんどが50年以上前のものだ。使用すると白血球の減少や腎臓に障害が出るなどの強い副作用がある。それでも投与しないと100%死ぬため、大きなジレンマを抱えた上での使用となる。

     そのため、実効性のあるトリパノソーマ対策は、迅速で正確な診断となる。診断法は、薬剤の10分の1以下の費用で安く開発できる。現行の診断法は、血液を顕微鏡で調べたり、遠心分離して沈殿物を分析したりしてトリパノソーマの有無を見ている。いずれも簡便で安価だが、多数の検体を調べるのには不向きで、正確さが低いのも玉にきずだ。

     2000年に日本の企業が開発した診断法は、血液中に含まれるトリパノソーマの遺伝子を目印に、増幅させて調べる手法で、1時間で結果が出る。これまでウガンダなどに検出キットを持ち込み、試験をしてきた。ただ1検体につき、1000円ほどのコストがかかるのがネックとなっている。

     もう一つは、市販の妊娠検査薬やインフルエンザの診断などで使われている、血液中から抗原や抗体を検出する手法だ(図5)。5分程度で結果が出て、1回の検査は100円と安価だ。検査キットは常温で長期保存できる。特別な技能や機器は不要で、途上国での診断に非常に有効だ。2014年にモンゴルで馬のこう疫が集団発生した際も使用したが、非常に精度が高かった。2年以内に同国での実用化を目指している。

     もう一つ、人や動物に悪さをする原虫を紹介したい。トキソプラズマで、1970年代初頭になってネコのふんに含まれる原虫が感染源となることが分かった。人間が、トキソプラズマに感染した豚や羊の生肉を食べたり、混入した食品や水を摂取したりすると、トキソプラズマは筋肉の中に潜んで休眠状態となり、活性化すると分裂して増殖し、細胞を破壊する。

     多くは感染しても健康被害はない。だが、妊婦は症状が出なくても、トキソプラズマが胎盤を通じて胎児に感染し、病害を引き起こす。「先天性トキソプラズマ症」という。妊娠初期に感染すると死産や流産につながり、妊娠中期―後期では赤ちゃんに視力障害や運動障害、精神障害が生じる恐れがある。大規模な抗体調査は行われていないが、日本では感染率がネコで6%、東京の妊婦は7%なのに対し、南九州の妊婦は14%というデータがある。産婦人科では、必ず妊婦にトキソプラズマの感染の有無を調べている。

     原虫病の感染を防ぐには、吸血昆虫やマダニに刺されないようにすること。食品からの感染を防止するには、食材を<1>調理前、食べる前によく洗う<2>中心部まで70度以上で加熱<3>氷点下20度以下で24時間以上冷凍――の3原則を徹底することだ。食器や調理器具の汚染、生水、山菜、生野菜、シメサバ、薫製、干物を食べる時も要注意で、ペットや野生動物との接触も気をつけてほしい。

    井上昇(いのうえ・のぼる
     1994年帯広畜産大学畜産学部卒。岐阜大学で博士号(獣医学)を取得。95年に帯広畜産大原虫病研究センター助手になり、2012年から教授。14年から同センター長。07年に国際獣疫事務局(OIE)からトリパノソーマ病リファレンスラボラトリー専門家に任命される。

    【質疑応答】

      睡眠病では、トリパノソーマは脳の特定の部位に移行するのか。

      血液から脳脊髄液に入るのだが、どこから入るのかは分かっていない。調べるためには人間で実験をしないと分からず、それは倫理的に難しいためだ。

     ◇知の拠点セミナー 全国の国立大学が共同で利用する研究拠点の成果を一般向けに紹介する連続講座。毎月1回、東京・品川で開いている。日程や参加申し込みは、セミナーのホームページへ。

    2015年06月30日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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