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正倉院とは

■正倉院「正倉」外構の公開休止について

起源

 756年、聖武天皇崩御の四十九日忌に光明皇后が聖武天皇ゆかりの品々を東大寺大仏に献納したことが正倉院宝物の起源。


建物構造


正倉院(左奥)、手前が西宝庫、右奥が東宝庫

 東大寺の正倉院はかっては十数棟あった倉庫群だが、現在は1棟。総ヒノキ、寄棟造りで、奈良の歴史的建造物が世界遺産として登録されたとき、この正倉院も登録された。南北33メートル、奥行き9・4メートル、高さ14メートル、床下2・7メートル。3倉に分かれ、北倉と南倉は三角形の校木(あぜき)を組んだ校倉(あぜくら)造り。中倉だけは厚板を組んだ板倉造り。

 北倉は聖武天皇、光明皇后の遺愛の品を中心にした宮廷生活品が納められており、最も由緒ある品々があったといえる。最初に光明皇后が大仏に献納した品々などを記した「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」など5通の献物帳もここに納められていた。

 現在は鉄筋コンクリート造りの西宝庫、東宝庫に分納されて保存されている。


正倉院(左奥)、手前が西宝庫、右奥が東宝庫

保存

 1250年もの間、宝物が守り継がれてきた一番の要因は宝物の管理が天皇の命によって封を施す勅封(ちょくふう)の形式で行われてきたことだ。とくに北倉は当初から勅封とされ、中倉も平安期から同じく勅封となり、南倉は長く東大寺の管理とされてきたが、明治8年に、宝庫の管理が政府に移され、すべてが勅封となった。現在も西宝庫内の各入り口に勅封が施されている。

 毎年秋に定例の宝物調査・点検が行われており、その際も「開封の儀」がとり行われる。

 正倉院の宝物は「校倉造に組まれたヒノキの校木が外気の温度、湿度の違いで膨らんだり縮んだり、壁の透き間が開いたり閉じたりして、屋内の温湿度を一定に保ってきた」。この説は戦前、建築史家が唱えたという俗説だが、現在では科学的調査で、校木が大きく収縮することはないことが判明、正倉院宝庫は“収縮する”という説は否定されている。そして、宝物が守られてきたのは、校倉に加え、湿度変化の小さい唐櫃(からびつ)の二重の“箱”に納められていたからだと考えられている。


宝物の特色

<1>由緒正しい品々で構成

 「国家珍宝帳」などの献物帳には奉献の趣旨をはじめ、宝物の名称・個数・形状・材質などから装飾の特徴、さらには伝来の由来まで詳細に記されている。

<2>宝物が多種多様なこと

 袈裟・献物箱・銀壺・幡など仏具法具、厨子・椅子・屏風・毛氈・鏡などの家具調度、大刀・鉾・弓・馬鞍など武器武具、筆・尺・硯・紙など文房具、箜篌(くご)・琵琶・琴・(しょう)など楽器、棊局・双六など遊具−−と多岐にわたる。また材質も象牙・犀角・鹿角・鯨骨・貝殻・タイマイなど動物質のものから紫檀・黒檀・沈香など外来の植物質からさらに鉱物質のものとして、金・銀・銅・鉄・錫・ラピスラズリ(青金石)・大理石などがある。

<3>優れた製作技法を伝える

 金工・木工・竹工・漆工・陶器・ガラス・染織、さらに彫刻・絵画・木画・撥鏤(ばちる)など様々。撥鏤など後世ほとんどその技法が絶えたものがあるが、一方で蒔絵(まきえ)の源流ともいえる末金鏤(まつきんる)など注目される技法も。

<4>宝物がもつ国際性

 鏡や銀壺のほかガラス器も舶来の品。とくに薬物・香木類はほとんどが海外から輸入したもの。また、宝物の製作地は源流をたどると、中国はもちろん、ペルシア、インドに及ぶ。材質をみても、ラピスラズリはアフガニスタン産、象牙や犀角も日本国内には産出しないものばかりだ。


参考文献一覧

  • 長澤和俊 「正倉院の至宝−宝物殿に眠る歴史の謎」(青春出版社)
  • 米田雄介「すぐわかる正倉院の美術」(東京美術)
  • 米田雄介「正倉院と日本文化」(吉川弘文館)
  • 米田雄介「正倉院宝物の歴史と保存」(吉川弘文館)
  • 守屋弘斎・久我高照他「東大寺と正倉院」(雄山閣出版)
  • 正倉院事務所編「正倉院宝物−増補改訂 北倉」
  • 関根真隆「正倉院への道−天平美術への招待」(吉川弘文館)
  • 橋本義彦「正倉院の歴史」(吉川弘文館)



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