三つの“外圧”に直面

 当時の日本は結局、「三つの外圧に直面することになった」(升味準之輔『昭和天皇とその時代』山川出版社)。その第一は、英米など先発帝国主義国によるワシントン体制の締めつけ。第二は、中国民族主義の勃興、第三はソ連と共産主義だった。

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写真:張作霖が列車ごと爆殺された現場(奉天郊外)

「満州事変」が出発点

 一九二八年(昭和三年)三月一日のことである。陸軍省と参謀本部の将校でつくる研究会「木曜会」の五回目の会合が開かれた。同会は、鈴木貞一を中心として、永田鉄山、岡村寧次 、東条英機 、石原莞爾 、根本博らが加わっていた。
 会合では、根本の報告と討論が行われた後、陸軍省の中佐だった東条が「帝国自存のため、満蒙に完全なる政治的権力を確立するを要す」と締めくくった。「完全なる政治的権力とは『取る』ということか」との質問に東条は答えた。「然り」。

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写真:満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の現場

石原、板垣が首謀

 では、石原、板垣が主導した満州事変は具体的にどう計画、実行されたのか。
 関東軍参謀だった花谷正の戦後の回想によると、石原の発案で、毎週一、二回、板垣、石原、花谷の三人で勉強会を行っていた。張学良の軍事顧問補佐官・今田新太郎もこれに参加。中国人による鉄道爆破に見せかけ、満鉄や居留民保護などを口実に出兵するという事変の青写真は、三一年春までに出来上がっていた。

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写真:中国人による鉄道爆破にみせかけて出兵を図る事変の青写真を描いた石原莞爾(左)と板垣征四郎

林朝鮮軍司令官が独断越境

 石原らの狙いは、吉林に出動し、手薄になる奉天方面には朝鮮軍の増援を頼んで、事変の拡大をはかることだった。この局面で、関東、朝鮮両軍司令官が示した判断は、後世、問われることになる。一人は、本庄繁関東軍司令官、もう一人は、林銑十郎朝鮮軍司令官だ。

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写真:奉天市街で機関銃を構える日本兵と「越境将軍」ともてはやされた林銑十郎

弱気の若槻首相、不拡大貫けず

 関東軍が起こした満州事変に政府はどう対応したのか。若槻礼次郎内閣は「事件の不拡大」を決めながら、軍の行動を追認してしまった。それはなぜか。

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写真:第2次若槻内閣成立を伝える1931年4月15日付の読売新聞

満州に執着、「連盟」脱退

 衆議院は六月に満州国承認決議を全会一致で可決した。内田康哉外相は、八月の衆院本会議で、政友会の森恪の質問に対し、「挙国一致、国を焦土にしても此の主張(満州国承認)を徹することにおいては一歩も譲らない」と答弁した。いわゆる「焦土演説」である。
 リットン報告書に基づく勧告は三三年二月、国際連盟総会で採択された。賛成は四十二か国、反対は日本だけであり、ほかにシャム(タイ)が棄権した。日本代表の松岡洋右は脱退を通告して退場した。

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写真:国際連盟からの脱退を表明する松岡洋右(中央、1933年2月)

華北分離工作

 一九三三年(昭和八年)五月、日中両国は塘沽停戦協定に調印し、満州事変は終結をみる。これにより、日本は満州だけでなく、万里の長城以南の広大な中国領土を中立地帯として確保した。対中関係は相対的な安定期に入る。しかし、陸軍は、華北五省(河北、察哈爾、山東、山西、綏遠)に自治政権を作って蒋介石の国民政府から切り離す、いわゆる「華北分離工作」を本格化させ、日中戦争に道を開いていった。

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写真:華北分離工作の拠点となった冀東防共自治政府(国立国会図書館ウェブサイトより)

西安事件で一致抗日

 三五年十二月九日、学生たちが北平(北京)で、「日本帝国主義打倒」、「内戦停止、一致抗日」を叫んで、激しいデモを繰り広げた。抗日運動は都市から都市に広がっていく。共産党も三五年八月一日、「抗日救国のため全同胞に告げる」との「八・一宣言」をパリの「救国報」紙上に発表した。
 さらに、蒋介石に日本との全面軍事対決を決意させる事件が起きた。三六年十二月の西安事件である。

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写真:西安事件では、張学良(左)らが中国国民党の蒋介石(右)を一時監禁

広田、親英米路線から転換

 広田弘毅が、内田康哉の後任として外相の座に就いたのは、塘沽停戦協定成立後の一九三三年(昭和八年)九月のことだった。外務次官は重光葵、欧米局長は東郷茂徳。広田は国際協調を掲げて日中関係の改善を進めていったが、三四年四月、外務省の天羽英二 情報部長による「天羽声明」が問題化した。
〈東亜の平和、秩序維持のため、日本が単独で行動するのは当然だ。中国が、他国を利用して日本を排斥し、東亜平和に反する手段に出ることがあれば日本は排撃しなくてはならぬ〉
 これは、いわば「アジア・モンロー主義」であり、諸外国は、国際協調、親英米主義の幣原外交の方向転換と受け止めた。

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写真:広田弘毅

現役武官制復活など三失策

 広田首相の失策の一つは、軍部大臣現役武官制の復活(三六年五月)だ。軍部大臣を現役に限るという、このルールは、軍部が大臣を出さないことにすれば、いつでも内閣をつぶせることを意味した。

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写真:ヒトラーの写真を手にする外相の有田八郎

日清戦争で慢心、中国の力を見誤る

 「支那人が果たして近代国家を造り得るや頗る疑問にして、寧ろ我が国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期するが彼等の為に幸福なるを確信するものなり」(石原莞爾「満蒙問題私見」)
 満州事変の首謀者、関東軍参謀の石原莞爾は当時、こんな中国人観を持っていた。満蒙の人々にとっては日本に領有されるほうが幸せだ、というのである。

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写真:国立国会図書館憲政資料室が所蔵する石原莞爾「満蒙問題私見」の写し

二・二六後、軍に逆らえず・・・

 事件は、村中、磯部を主導者に、約一千四百人の部隊が首相官邸などを襲い、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害した。難を逃れた首相岡田啓介は、後年こう振り返っている。「二・二六事件は、陸軍の政治干与を押さえる最大のチャンスではなかったか。……ごくいい潮時だったと思うが、軍に逆らうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思い通りのことをされるようになってしまった」(『岡田啓介回顧録』中公文庫)。

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写真:2・26事件の反乱軍鎮圧のため、地方から上京してきた部隊

「盧溝橋事件」機に拡大派策動

 一九三七年(昭和十二年)七月七日、蒸し暑さの残る夜の闇を、乾いた銃声が貫いた。中国・北京郊外の盧溝橋。演習中の日本軍が発射した空包に対し、数発の実弾が飛来したのだ。部隊集結の際、また十数発。八日未明、さらに三発の銃声。牟田口廉也連隊長は、中国軍への反撃を指示した。
 当初、これが日中全面戦争につながるとは、多くの人は思わなかった。だが、一つ一つの判断と行動が錯綜しながら、事態を膨らませていく。

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写真:南京に攻め込む日本軍

停戦なき和平、空振り

 三七年(昭和十二年)の盧溝橋事件以降、日本は参謀本部を中心に、戦争拡大に歯止めをかけるための和平工作に乗り出した。戦闘の長期化で対ソ戦の備えが疎かになることへの懸念も強まっていたのである。そうした和平工作の代表例が、ドイツのトラウトマン駐華大使を仲介役とする「トラウトマン工作」だった。

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写真:第1次近衛声明の決定を報じる1938年1月16日付の読売新聞朝刊。「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」。日本は日中戦争を早期に解決する好機を失った

人気の近衛、指導力欠く

 近衛文麿が衆望をになって初めて政権の座に就いたのは一九三七年(昭和十二年)六月四日、日中戦争勃発の一か月前のことである。五摂家筆頭という名門の出自と四十五歳の若さは、満州事変以降、軍部台頭に伴って混迷を続ける政治を打開してくれそうな予感を世間に与えた。
 しかし、結論を急げば、この高い人気を集めたリーダーは、それ以降三次にわたる内閣を率いながら、こうした期待を裏切る結果に終わるのである。

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写真:近衛文麿と第1次近衛内閣

戦費急増、議会は黙認

 盧溝橋事件直後の三七年(昭和十二年)七月、第七十一特別議会が召集された。政府は、同事件経費として約一億円の追加予算案を提出した。衆院予算委員会で、熊谷直太委員長が「重大なる時機に遭遇」しているとして「質疑省略」を提案すると、全員が「異議なし」。民政党、政友会、第一議員倶楽部、社会大衆党、第二控室、東方会の全会一致で可決された。開会は午前十時二十一分、散会は午前十時五十二分で、わずか三十分あまりだった。

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写真:現在の国会議事堂は1936年11月に完成した。まもなく議会は政府の方針を追認するだけの機関になっていく

三国同盟へ、陸軍が動く

 日本が、ドイツ、イタリアとの同盟を結んだのは、一九四〇年(昭和十五年)九月二十七日である。第二次近衛文麿内閣の成立から約二か月後のことだった。
 同盟締結には前史がある。三三年(昭和八年)、国際連盟を相次いで脱退した日独は、三六年十一月には、ソ連の軍事的圧力とコミンテルンの「赤化」工作に備えて、日独防共協定(翌年イタリアも加入)を締結した。

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写真:後に三国同盟に発展する日独伊防共協定の調印式。中央はムソリーニ伊首相、その左がリッベントロップ独全権、右から2人目が堀田正昭全権(ローマで、1937年11月6日)

独軍の快進撃に便乗

 一度は消えたはずの日独伊の同盟は四〇年(昭和十五年)に入って復活する。その最大の要因は、ドイツの快進撃だった。

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写真:凱旋(がいせん)門を抜けてパリに入城するドイツ軍(AP)

陸海軍、親独派が大勢に

 日本が日独伊三国同盟に賭けることにした理由の一つに、明治期からの陸軍の親独感情が挙げられる。それは、普仏戦争(一八七〇~七一年)でドイツが勝利したことを受けて、日本の軍事システムをフランス式からドイツ式に改めて以来のことだった。

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写真:明治神宮外苑競技場で開かれたナチス・ドイツの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」の歓迎大会

構想倒れの松岡外交

 松岡の構想は、日独伊三国の同盟によって「アメリカの東アジアにおける圧力に対抗」するだけでなく、東西の両端での「新秩序の建設を日独で相互に認め合おう」というものだった。そしてこれを現実に機能させるには、安全を脅かすソ連の了解が必要であり、それを仲介できるのはドイツだと考えていた(三輪公忠『松岡洋右』中公新書)。

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写真:日ソ中立条約調印後、スターリン(左)と腕を組む松岡洋右外相

ドイツ“妄信”の大島電

 日本の欧州情報の集積地・ベルリンには、極端なドイツびいきの人物がいた。陸軍出身の大島浩。幼少からドイツ語の英才教育を受けた大島は、三四年に駐独武官としてベルリンに赴任。三八年、板垣征四郎陸相の後押しで大使に昇格してからは、外務省の訓令などは無視して三国同盟の交渉を推進した。

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写真:駐独日本大使館にヒトラー(右から2人目)を招いて開かれた昼食会の様子を伝える1940年11月20日発行の読売ニュース

ナチスを見習った大政翼賛会

 国内の政治・経済・社会体制と外交政策の「革新」を求める動きは、昭和初期からくすぶり続けてきたが、四〇年に入って本格化する。近衛側近の有馬頼寧、風見章らは「近衛新党」を目指し、近衛は六月二十四日、「枢密院議長を拝辞し、新体制の確立のために微力を捧げたい」との声明を発表した。
 陸軍も、近衛の新体制運動に期待した。ドイツ躍進の根源はナチスの一党独裁体制にあると考え、日本もナチスのような一国一党体制を敷き、日本に国家総動員体制を確立する必要がある、と考えたのである。

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写真:大政翼賛会の発会式を伝える1940年10月16日発行の読売ニュース

仏印進駐

 日本の南進論に火をつけたのは、一九四〇年(昭和十五年)五月からの、ドイツの欧州における電撃戦だった。これによって、東南アジアに植民地をもつ英仏蘭が崩壊の危機に立つと、日本国内には、これら植民地に進出しようとする議論が一気に加速した。

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写真:北部仏印の諒山(ランソン)に進駐する日本軍の戦車隊について報じる1940年10月9日発行の読売ニュース

北か南か、大局見失う

 北進か、南進か―。ドイツの勝利に期待して、ソ連を東西から挟み撃ちするべきか、アジアの英仏蘭植民地に打って出るべきか。
 この独ソ開戦を踏まえて決定された国策が、〈情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱〉だった。六月二十五日から連絡懇談会で検討され、七月二日の御前会議で正式決定された。

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写真:独ソ開戦を受けた御前会議の決定を伝える1941年7月3日付の読売新聞夕刊

南部仏印進駐、米の覚悟を錯覚

 一九四一年(昭和十六年)七月の南部仏印進駐は、米国から石油の対日禁輸という対抗措置を招いた。この危険性を、当時の政治・軍事指導者は、どの程度認識していたのだろうか。

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写真:サイゴンに入る日本軍の銀輪部隊

海軍主導の南下

 満州事変から日中戦争、そして日米開戦に至るまで、主戦論の先頭に立ったのは終始、陸軍だった。日米開戦の「ポイント・オブ・ノーリターン」と言われる三国同盟も、南方進出でも北部仏印進駐までは、明らかに陸軍が主導した。だが、南部仏印進駐では、海軍がイニシアチブをとっていた。一貫して日米開戦に慎重だった海軍に、いったい、何があったのか。

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写真:呉工廠で建造を急ぐ戦艦「大和」(大和ミュージアム提供)

開戦決意へ数字合わせ

 最後の国力判断は、東条内閣成立後、企画院によって行われた。企画院総裁は、陸軍出身の鈴木貞一だった。鈴木は四一年八月時点では、「もし戦争が勃発し、蘭印の石油産地を占領しても、必ず破壊されるので、石油の入手は困難」と報告していたが、十一月五日の御前会議では、南方作戦の実施で得られる量と国内の貯油をあわせると、石油は「辛うじて自給態勢を保持し得る」との判断を示した。

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写真:第2次世界大戦下、米カリフォルニアのロッキード社工場で大量に生産される爆撃機「ハドソン」(AP)

決裂へと進む日米交渉

 一九四〇年(昭和十五年)暮れから民間レベルで始まった日米交渉は、翌四一年五月から政府間交渉に移行し、開戦直前まで続いた。それが「ついに成立するに至らず、帝国は米英蘭に開戦す」(四一年十二月一日御前会議決定)ることになったのは、なぜなのか。

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写真:ハル米国務長官(中央)とホワイトハウスを訪問した野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特派大使(AP)

東条「避戦」任務果たせず

 東条内閣は、十月十八日に発足した。対米穏健派の東郷を外相に据え、東条自ら陸相、内相を兼務した。早速、開戦決定を見直す作業を始めるが、結局は失敗に終わってしまう。木戸の狙いは、「錦の御旗は軍部中堅にある。これを白紙に戻す」ことだった。ところが、新内閣では、官僚人事に手がつけられず、強硬派の塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長をはじめ、政策立案と決定権をもつラインは同じ顔ぶれだった。

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写真:東条英機(前列中央)内閣が発足。自ら陸相、内相も兼任

遅れた対米通告

 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。攻撃開始予定時間の三十分前、米東部時間の七日午後一時に、野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特派大使が、ハル米国務長官に対米覚書を手渡す手はずだった。だが、実際に手交したのは午後二時二十分。攻撃開始から約一時間遅れの通告となってしまった。

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写真:真珠湾攻撃に際し、日米交渉の打ち切りを日本が通告した「対米公文書」の原案

あいまいな戦争目的

 四一年十一月二日、東条英機首相が「開戦」の方針決定を昭和天皇に報告した際、天皇は「戦争の大義名分をいかに考えうるや」とたずねた。東条は、「目下、研究中でありまして、いずれ奏上致します」と答えた。「開戦」を決定した大本営政府連絡会議でも、この点での詰めた議論がなかったのである。

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写真:真珠湾で日本軍の爆撃を受け沈没する米艦アリゾナ(1941年12月7日、AP)

ミッドウェー海戦、空母四隻失う

 日本の連合艦隊は、米空母三隻に対し、六隻の空母を擁していた。しかし、ミッドウェーとアリューシャン攻略に各四、二隻と戦力を二分する過ちをおかしていたばかりか、「敵空母は現れない」との先入観にとらわれていた。公刊戦史である『戦史叢書』(朝雲新聞社)は、「敵空母出現といった緊急事態の発生に対応する計画がなかったのは、敵を侮った驕慢の心が原因」と結んでいる。

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写真:ミッドウェー海戦で日本機動部隊の攻撃を受ける米空母

「艦隊決戦思想」に固執

 世界の海軍は、伝統的に艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)をとってきた。戦艦同士が大口径の主砲で撃ち合って雌雄を決するという考え方だ。
 日本も例外ではなく、日米開戦前、海軍は、米本土から来航する米艦隊を中部太平洋のマリアナ諸島付近で迎え撃つシナリオを描いていた。

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写真:ミッドウェー海戦で、米軍機の攻撃を回避する空母・赤城

山本五十六、説明努力怠る

 米国の国力を知る山本は、一貫して短期決戦の考えを持ち、真珠湾もミッドウェーも、敵艦隊撃滅で戦意を失わせ、講和に持ち込む腹で発案された。
 だが山本は、軍令部や艦隊幹部に自分の考えを理解させる努力を怠った。元大本営参謀の吉田俊雄は著書の中で、山本は「話してもわからないし、誤解されるとさらに面倒だ」と考えていたと記す。

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写真:山本五十六・連合艦隊司令長官

敗戦秘匿、責任問わず

 ミッドウェー海戦は、多くの犠牲をもたらして終わった。しかし、海軍は、敗戦の責任を明らかにせず、学ぶことも何一つなかった。
 空母四隻喪失、作戦中止―の報を受けた軍令部は、海軍および国民の士気に与える影響を考慮し、実情を厳に秘匿する方針をとった。大本営海軍部発表を伝える四二年(昭和十七年)六月十一日の読売新聞朝刊は、「東太平洋に感激の壮烈戦 ミッドウェーを強襲 空母二隻を撃沈」という事実と異なる戦果を報じている。

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写真:ミッドウェー海戦での損害を秘匿した大本営海軍部発表を伝える1942年6月11日付の読売新聞朝刊

「餓」島と化したガダルカナル

 当時の陸軍は、ガダルカナル島の名も、海軍が飛行場を建設していたことも、海軍から「米軍上陸」の連絡を受けるまで知らなかった。大本営は、米軍の反攻開始は早くても四三年中期以降と予想していた。米軍が大反撃を開始するとは、まったく考えていなかったのである。

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写真:ガダルカナル島の密林を進む日本軍川口支隊の兵士

無援の孤島、次々玉砕 「戦陣訓」が呪縛

 日本兵が捕虜になることを避け、敵陣に死の突進をしたのはなぜなのか。
 四一年(昭和十六年)一月八日、東条陸相は「戦陣訓」を示達した。これは、軍人が守るべき道徳と戦場での戒めを説いたものだった。その中に「名を惜しむ」の項目がある。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」とあり、捕虜になることを禁止していた。

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写真:アッツ島に上陸した日本軍

陸海対立、統制不能に

 そもそも、対米戦争を主軸に考える海軍と、主力を中国大陸に置いて重慶の蒋介石政権攻略を重視する陸軍とは、基本戦略から食い違いが否めなかった。
 アッツ島玉砕の後、昭和天皇は、「陸海軍の間に本当の腹を打ち明けた話し合いができているのであろうか」と、侍従武官長に懸念を示していた。

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写真:東南アジア歴訪を終えて帰国した東条英機首相兼陸相(左)

大東亜会議開催、「共栄圏」確立に遠く

 英国の外交史研究家であるイアン・ニッシュは、大東亜宣言について「ほとんどのアジア人にとって宣言は一片の非現実的な宣伝としてうつろな響きしか持たなかった。彼らには日本が対等な提携者として振る舞うなどとはとても信じることができなかった」(『戦間期の日本外交』ミネルヴァ書房)と指摘している。

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写真:大東亜会議に出席した各国首脳(1943年11月)

インパール作戦、「無能」の代償

 五月中旬、南方を視察した参謀次長の秦彦三郎は、参謀総長の東条に「インパール作戦の前途は極めて困難」と報告した。東条は「そんな気の弱いことでどうするか」と語気を強めたが、後になって「困ったことになった」と頭を抱えた。
 雨期に入った現地では、飢えとマラリアなどで兵士が次々と倒れた。六月初めの河辺―牟田口会談では、互いに顔色をうかがって作戦中止を言い出さず、南方軍から中止命令が届いたのは七月三日だった。死傷者は約七万二千五百人に達した。

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写真:インパール作戦で、アラカン山系の密林を進む日本軍

絶望的戦況下の決戦計画「捷号作戦」

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の尋問に対して、大本営陸軍部の服部卓四郎作戦課長は、「沖縄は米軍に出血を強要する一持久作戦と認め、国軍総力の大決戦は本土で遂行する」というのが計画の趣旨だった、と認めている。
 沖縄は、本土防衛のための時間稼ぎの戦場、いわば“捨て石”と位置づけられていたのだった。

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写真:皇居での最高戦争指導会議

「沖縄戦」多大な犠牲

 六月四日ごろまでに、第三十二軍は、喜屋武の摩文仁の新陣地に集結したが、撤退作戦は悲惨を極めた。大本営陸軍部の指示で、将兵、県民を問わず、重傷者には、自決用の手榴弾や青酸カリ入りのミルクが配られた。本島南部に退いた軍は約三万人で、十万人を超す住民とガマと呼ばれる洞穴(壕ごう)内に潜んだ。一部の日本兵は、避難住民から洞穴を取り上げた。米軍は七日ごろから、洞穴の頂上部に穴をあけ、石油を流し込んで焼き殺す「馬乗り攻撃」などによって、残存兵を掃討した。

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写真:沖縄県読谷村の海岸に上陸する米兵(沖縄県平和祈念資料館提供)

知事、職務投げ出す

 住民対策が遅れた要因の一つに、泉守紀沖縄県知事が沖縄空襲後、自ら比較的安全だった普天間に避難し、事実上職務を投げ出してしまったことがある。しかも四四年十二月には、東京に出張に行ったまま帰らず、翌年の一月十二日付で香川県知事に転任してしまった。一月末に島田叡が新知事として着任するまでの約一か月間、住民対策は完全に止まった。

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写真:学童疎開船となった「対馬丸」(日本郵船歴史博物館提供)

根こそぎ動員された県民

 沖縄戦で、海軍の地上部隊(約一万人)を率いた大田実少将は、現在の那覇空港に近い小禄の海軍司令部壕で自決する前の四五年六月六日、自らの所管外にもかかわらず、「現状を看過するに忍びず」として、異例の電報を東京に送った。
「県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ……、砲弾運び挺身斬込隊すら申し出る者あり。……陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ……」

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写真:白旗を掲げて米軍に投降する少女(沖縄県公文書館提供)

大和「一億総特攻」の先駆けに

 四月五日、連合艦隊は、戦艦「大和」以下の第二艦隊に対し、海上特攻として沖縄に突入することを命じた。第二艦隊の伊藤整一司令長官は当初、作戦とはいえない無謀な挙だと、納得しなかった。しかし六日、「大和」の長官室で、草鹿龍之介参謀長が「一億総特攻の先駆けとなっていただきたい」と述べると、伊藤司令長官は、吹っ切れたように、「それならば何をか言わんやだ。了解した」と応じた。

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写真:火を噴きながら米艦に突っ込む特別攻撃隊機

憲兵政治、和平工作を妨害

 吉田によれば、近衛の「滞欧プラン」も、東条に気兼ねした木戸幸一内大臣によって握りつぶされた。東条は、近衛の和平への言動を警戒し、木戸に「取り締まる必要がある」と圧力をかけていたからだという(『日本を決定した百年』中公文庫)。

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写真:国民総決起運動中央総会に出席した東条首相

「反東条」運動

 一九四三年(昭和十八年)九月、イタリアが降伏した。ソロモン諸島の戦闘で日本の敗色も濃くなった。このころ岡田啓介・元首相は、近衛文麿、平沼騏一郎らとともに東条を呼んで諌める会合を企画した。東条は難色を示し、翌年になってようやく出席するが、この間の重臣たちの蠢うごめきが「反東条」運動を醸成していくことになる。

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写真:1942年の衆院選で尾崎行雄が東条英機に出した選挙の不公正さを問う公開質問状の草稿(尾崎行雄記念財団所蔵)

消去法で小磯内閣に

 東条内閣の後継は、陸軍の小磯国昭になった。この重大な局面でのリーダー選びの実情はどのようなものだったのか。  実は、東条内閣打倒に動いた側は、その後継まで見通した策を持っていなかった。加えて国家リーダーに足る人物も枯渇していた。

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写真:小磯国昭内閣発足

木戸内大臣批判

 終戦時の鈴木貫太郎内閣の情報局総裁、下村宏(号は海南)は、『終戦秘史』(講談社学術文庫)で、木戸の欠点を「衆智を集めて熟慮断行しなかったことである」と指摘。細川護貞は、終戦工作が進まないのに焦り、「要するに木戸内府は一番のガン」と語り、高松宮にしかられている。

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写真:食糧難から国会議事堂の前庭は畑となり、芋や野菜が作られた(1945年2月)

小磯内閣の和平工作

 小磯内閣は、戦争の終結を視野に入れ和平工作に向かう。そのひとつが、汪兆銘の国民政府(南京政府)から蒋介石の国民政府(重慶政府)に働きかけて統一政府を作り、中国の米英軍を撤退させる着想だった。

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写真:中国の戦線で、タバコを分け合う日本軍と南京政府軍の兵士

ヤルタ会談とソ連参戦の密約

 一九四五年(昭和二十年)二月四日、ソ連南部(現ウクライナ)クリミア半島のヤルタに、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相の三人が集まった。
 米英両国から遠いヤルタを会談場所に選んだのはスターリンであった。ルーズベルトは病身をおして船と飛行機と車を乗り継ぎ、雪のクリミア半島にたどり着いた。

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写真:1945年2月に行われたヤルタ会談。左からチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリン・ソ連首相(AP)

日本に原爆投下される

 四五年(昭和二十年)七月十六日午前五時三十分、米国は、ニューメキシコ州アラモゴードで、かつてない威力を持つ新型爆弾の開発実験に成功した。
 米国の原子爆弾の開発は、「マンハッタン計画」の名で、四二年(昭和十七年)八月に始まった。開発は、ナチス・ドイツに先行されるのを恐れた、アインシュタインら亡命中の科学者の進言によるものだった。

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写真:米アラモゴードで行われた初の原爆実験の作業の様子(1945年7月、AP)

原爆は日本でも研究されていた

 原爆の研究は、日本でも秘密のうちに行われていた。歴史家の保阪正康氏によると、ルートは二つ。一つは、陸軍の安田武雄航空本部長が四一年五月、理化学研究所の大河内正敏所長に研究を依頼し、二年後、理研の仁科芳雄研究室から「技術的に原爆製造は可能」との報告を得ていた。

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写真:理研の大サイクロトロンと日本の原爆研究を担った仁科芳雄博士(仁科記念財団提供)

鈴木貫太郎内閣の発足

 小磯国昭内閣に代わり、後継首相に指名されたのは、枢密院議長の鈴木貫太郎海軍大将だった。侍従長を長く務めたこともあり、天皇の信任が厚かった。だが、一八六七年(慶応三年)生まれの鈴木は、すでに七十七歳で耳も遠かった。

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写真:鈴木貫太郎内閣発足

ソ連に仲介求め、大失態

 四五年(昭和二十年)四月五日、モスクワの佐藤尚武大使から衝撃的な報がもたらされた。モロトフ外相が、日ソ中立条約の不延長を通告してきたというのである。米軍は同一日に沖縄に上陸していた。欧州では、ドイツの崩壊が間近い。このうえソ連が参戦してくれば、日本の命運は尽きてしまう。

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写真:モロトフ・ソ連外相と、東郷茂徳外相

ポツダム宣言 米、原爆成功でソ連外し

 ベルリン郊外のポツダムでの会談は、七月十七日からトルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相の三首脳によって行われていた。宣言には、米英両国首脳と、会議に参加しなかった蒋介石・中華民国総統が署名した。
 なぜ、スターリンが署名していないのか。

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写真:ドイツ・ポツダムで会談に臨み、握手する(左から)チャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリン・ソ連共産党書記長(1945年7月23日、AP)

「聖断」で降伏受諾

 結局、鈴木は、あえて天皇の判断を仰ぎ、天皇大権の変更要求を含んでいないことを前提に、ポツダム宣言の受諾が決まる。戦後になって鈴木は、「真に国運を左右するような非常事態に立ち至って論議が決定せぬときには、国の元首たる陛下の御裁断を仰ぐべきが、真の忠誠の臣のなすべき道であると、余はかねがね考えていた」と語っている。

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写真:ポツダム宣言を受けて行われた鈴木貫太郎首相の会見を報じる1945年7月30日付の読売新聞

「聖断」に至る天皇の軌跡

 天皇が、戦局を憂慮し始めるのは、ガダルカナル戦の敗色が濃くなる四二年秋からだ。四三年(昭和十八年)三月三十日、木戸幸一内大臣に対して、「今度の戦争の前途は明るくない。ミッドウェーで失った航空勢力を回復することは難しい。制空権がなければ、広大な戦線はいたるところで破は 綻たんするだろう」と、厳しい見通しを語っている。

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写真:横浜沖に停泊した米戦艦「ミズーリ」号上で行われた降伏文書の正式調印式

東京を襲った空前の焼夷弾

 四五年(昭和二十年)三月十日午前〇時十五分、空襲警報が発令された。それから約二時間半、B29戦略爆撃機百五十機(米側資料では三百三十四機)が、単機あるいは数機ずつに分散して低空から波状絨毯爆撃を行った。多数の火災が発生、烈風により合流火災となり、東京の約四割を焼き、甚大な被害を生じた―。東京都編集の『東京都戦災誌』(明元社)は、未明の東京大空襲をこのように記している。

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写真:東京大空襲で被害を受けた現在の江東区亀戸付近の焼け跡(東京大空襲・戦災資料センター提供)

中国で内戦、東南アジアで再植民地化戦争

 東京裁判が開廷した一九四六年(昭和二十一年)五月、中国では、蒋介石が率いる国民党と、毛沢東の共産党との対立が激化し、夏には新中国の覇者を決める全面的な内戦に発展した。

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写真:自分の肖像画の前で熱弁をふるうインドネシアのスカルノ大統領(1945年頃)

ソ連、六十万人を抑留

 ソ連軍は、一九四五年(昭和二十年)八月九日未明、モンゴル南東部国境から沿海州地方、樺太国境にいたる全戦線で一斉に攻撃を開始し、越境してきた。同日朝には、主力が満州(現・中国東北部)内部に侵攻を始めた。

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写真:ソ連軍に鉄道敷設など過酷な強制労働を強いられるシベリア抑留者ら(1954年頃)

米主導で「戦犯」訴追

 一九四五年(昭和二十年)八月三十日、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、神奈川県の厚木飛行場に降り立った。その夜、マッカーサーは、日米開戦時の首相だった東条英機の逮捕と、戦争犯罪人の容疑者リストの早急な作成を指示した。

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写真:東京裁判の判決を報じる1948年11月13日付の読売新聞

国際軍事裁判の論理 「事後法」で処罰

 四五年(昭和二十年)六月、ドイツの戦犯を裁く国際軍事裁判所(ニュルンベルク裁判)開設のための米英仏ソによる協議がロンドンで開かれた。
 米国代表の最高裁判事ジャクソンは、「世界の平和に対して行う、いかなる攻撃も国際的犯罪とみなすことをドイツ人たち及びその他の何人にも知らせたい」とし、侵略戦争の開始、遂行を犯罪とすることを主張した。そうした論議の末、「平和に対する罪」が生まれた。

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写真:東京裁判の判決日に出廷した被告ら

満州事変~終戦の十四年間

 本章では、これまでのすべての検証結果を踏まえ、日本の政治・軍事指導者や幕僚、高級官僚らの責任の所在とその軽重を明らかにするとともに、この誤った戦争から学ぶべきことについても示してみたい。

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写真:終戦詔書の一部

満州事変 戦火の扉開いた石原、板垣

 【責任の重い人物】
石原莞爾(関東軍参謀)、板垣征四郎(関東軍参謀)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、橋本欣五郎(参謀本部第二部ロシア班長)

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写真:満州国皇帝即位の大典で、式場へ向かう溥儀一行

日中戦争 近衛、広田無策で泥沼突入

 【責任の重い人物】
近衛文麿(首相)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、杉山元(陸相)、武藤章(参謀本部作戦課長)

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写真:上海市街でバリケードから敵陣を撃つ日本軍

三国同盟・南進 松岡、大島外交ミスリード

 【責任の重い人物】
近衛文麿(首相)、松岡洋右(外相)、大島浩(駐ドイツ大使)、白鳥敏夫(駐イタリア大使)、永野修身(軍令部総長)、石川信吾(海軍省軍務局第二課長)

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写真:ベルリンでの日独伊三国同盟調印式。左から来栖三郎駐独大使、チャーノ伊外相、ヒトラー独総統

日米開戦 東条「避戦の芽」葬り去る

 【責任の重い人物】
東条英機(首相兼陸相)、杉山元(参謀総長)、永野修身(軍令部総長)、嶋田繁太郎(海相)、岡敬純(海軍省軍務局長)、田中新一(参謀本部作戦部長)、鈴木貞一(企画院総裁)、木戸幸一(内大臣)

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写真:真珠湾攻撃の詳細を報じる1942年1月1日付の読売新聞

戦争継続 連戦連敗を”無視”した東条、小磯

 【責任の重い人物】
東条英機(首相兼陸相)、小磯国昭(首相)、永野修身(軍令部総長)、杉山元(参謀総長)、嶋田繁太郎(海相)、佐藤賢了(陸軍省軍務局長)、岡敬純(海軍省軍務局長)、福留繁(軍令部作戦部長)

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写真:出陣学徒7万人が雨中行進した壮行会

特攻・玉砕 「死」を強いた大西、牟田口

 【責任の重い人物】
大西滝治郎(第一航空艦隊司令長官)、中沢佑(軍令部作戦部長)、黒島亀人(軍令部第二部長)、牟田口廉也(陸軍第十五軍司令官)

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写真:フィリピン沖海戦に出撃する特別攻撃隊と見送る戦友たち

本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執

 【責任の重い人物】
小磯国昭(首相)、及川古志郎(軍令部総長)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)

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写真:本土決戦に備え訓練を受ける農家の主婦たち

原爆・ソ連参戦 東郷”和平”で時間を空費

 【責任の重い人物】
梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)、鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)

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写真:原爆投下後の広島の焼け跡で犠牲者を担いで運ぶ男性たち(ロイター)

天皇、立憲制の枠遵守

 責任を負うのは、天皇ではなく各国務大臣だった。「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とされ、法律や勅令、詔勅は、国務大臣の副署が求められた(五十五条)。昭和天皇は、法的には無答責だったのである。

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写真:大本営の御前会議に出席する昭和天皇

東条元首相に最大の責任 国際感覚欠き開戦

 日中戦争が英米との戦争に発展していくプロセスで生じる責任を「開戦責任」、勝てないと知りながら日米戦争に突入し、収拾を急がなければならないのに有効な手を打たなかった責任を「継戦責任」としてみると、東条はその双方で厳しく責任が問われるのである。

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写真:東京裁判で判決を聞く東条英機・元首相

近衛、軍部独走許す

 近衛は満州事変で積極的に軍部を支持した。欧米が、国際連盟規約や不戦条約を根拠に、日本を非難する資格はない、とする近衛の強硬論は、軍部を勢いづかせ、国民的人気も高まった。近衛は、これらに後押しされる形で三七年(昭和十二年)六月、首相になる。

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写真:第1次近衛内閣発足

広田、松岡、杉山、永野、小磯 指導層相次ぎ判断誤る

 日中戦争期、近衛の伴走者が広田弘毅だった。広田は、陸軍が華北分離工作を進めていた時期の斎藤実、岡田啓介内閣で外相を務めていた。重光葵外務次官とともに、「排日の停止、満州国の承認、共同防共」を掲げる広田三原則などを打ち出した。広田外交は、英米との協調外交からの転換を意味した。

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写真:日独防共協定成立を報じる1936年11月25日付の読売新聞号外

暴走・軍官僚にも責任 政治に介入、国策ゆがめる

 昭和戦争の重い責任は、トップクラスの政治・軍事指導者だけにあるわけではない。トップを支えていた数多くの参謀や官僚らの「暴走」や「誤断」は、日本の針路に重大な影響を及ぼした。

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写真:建国から2年後、帝政となった満州国の皇帝に執政溥儀が即位(1934年3月1日)

和平の努力も存在 木戸、鈴木(貫)、東郷、米内ら

 昭和戦争において、政治・軍事指導者の中には、それぞれの局面で結果責任をとらざるを得ない過ちをおかしながらも、終戦に向けて和平努力を重ねた人もいた。
 昭和戦争は、天皇の二回にわたる「聖断」によって終結した。このぎりぎりの局面を連携プレーで乗り切ったのが、木戸幸一内大臣や鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相らを中心とした「和平派」だった。

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写真:本土空襲を受け、横浜・川崎を視察する鈴木首相

米・ソの「戦争責任」

 昭和戦争をめぐるアメリカやソ連の「戦争責任」は、あまり論じられてこなかった。
 アメリカは、一九四五年(昭和二十年)三月の東京大空襲で、一般の住民ら約八万八千人を殺害したのをはじめ、日本各地で焼夷弾の無差別爆撃を繰り返した。さらに、広島、長崎に原子爆弾を投下し、死者は広島約十四万人、長崎約七万四千人にのぼった。

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写真:長崎に投下された原爆(1945年8月9日)

検証 「東京裁判」と一線を画す

 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、東条英機ら二十五人の被告に判決が下された。読売新聞の「検証・戦争責任」は、東京裁判とは一線を画して、指導者責任を実証的に検証してきたが、最終報告で「責任が重い」とみて挙げた人たちと、このA級戦犯とを比べてみると、重なる人もあるが、相違点もある。

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写真:東京裁判で戦犯が収容された巣鴨プリズン

第八章

「昭和戦争」から何を学ぶか

 昭和戦争の体験者は、ますます少なくなり、若い世代にとっては遠い過去の出来事になりつつある。「検証・戦争責任」の作業では、戦争の実相をつかむとともに、戦争について考え、そこから多くのことを学んできた。いったい、何を誤ったのか―検証に区切りをつけるにあたり、次代のために、その過誤を総括したい。

国際情勢、読み誤る幕僚政治 責任不問で弊害噴出議会 戦争を無批判に追認世論形成 新聞、報道の使命放棄人命・人権の軽視

国際情勢、読み誤る

 国家間の勢力均衡や世界の潮流を読み誤ると、国家の将来は危ういものとなる。第一次世界大戦後、日本は、その危うい縁に立たされてしまった。その最初の過失が満州事変だった。

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写真:日独伊三国同盟の調印を終えたヒトラー総統に喚起するベルリン市民

幕僚政治 責任不問で弊害噴出

 明治憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という規定がある。これが、内閣や議会による軍事への干渉を拒む根拠となった。幕僚は、内に対して優越し、外に対して独立し、思いのまま国策を引きずり回したのである。

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写真:東京・霞が関にあった海軍省。2階に海軍における統帥機関である軍令部があった

議会 戦争を無批判に追認

 帝国議会は、昭和の戦争を追認する機関と化した。官僚をコントロールし、軍部の暴走を止めることは、国民の負託を受けた議会、政治家の仕事でありながら、その重い責務を忘れてしまったのである。

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写真:翼賛選挙後、事実上の一国一党体制である「翼賛政治会」が発足

世論形成 新聞、報道の使命放棄

 日米開戦の導火線となる日独伊三国同盟の締結や南部仏印進駐などのたびに、各紙の紙面は礼賛記事で埋め尽くされた。新聞社内には、そうした風潮に批判的な声もあったが、結果として、無謀な対米英戦へと国民を誘導していった。

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写真:大本営海軍報道部の戦果発表

人命・人権の軽視

 白兵突撃戦採用の源をたどると、戦闘時に兵士がとるべき行動を規定した『歩兵操典』にいきつく。それは、「歩兵の本領は地形及び時期の如何を問わず戦闘を実行し突撃を以て敵を殱滅するに在り」などと、肉弾戦重視を鮮明にしていた。

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写真:サイパン島での日本軍玉砕後、生き残った婦女子ら