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読売新聞が報じた近代オリンピックの歴史

ギリシャでオリンピック再興

1896年4月6日に開会した第1回アテネ大会について、記事の中で五輪を「ヲリンピアン・ゲイムス」と呼び、「4年に一度ジュピター神の祭礼に催す陸上運動の競技会」と紹介している。;xNLx;;xNLx;イラストはアテネの競技会場と大会組織委員会長をつとめたギリシャのコンスタンチン皇太子。

「オリムピア競技」とは・・・

オリンピックの歴史や競技の内容について紹介した朝刊の付録。記事中では日露戦争に勝利した日本の国威を世界へアピールするため、第4回大会を東京で開催し、何十万人という健児の体育勉強の偉業を世界に誇示するのも良い方法だなどと述べられている。

日本の五輪参加が決定

第5回ストックホルム大会への参加が決まり、「野球をのぞく外一切の競技を行い記録(レコード)を作るので(欧州の)興味の深さは非常だ、我が国の人には想像だにも及ばない」などと野球を基準に紹介。写真には「ゲーム(競技)中のチピカル(典型的)スタート」とカナが振られている。

ストックホルムへ出発

ストックホルム大会には、三島弥彦、金栗四三の2選手が参加。家族や関係者が東京・新橋駅で両者を見送った。一行は新橋駅から電車で福井・敦賀へ。船でロシア・ウラジオストックへ渡りそこからシベリア鉄道でストックホルムへと向かった。(画像1、2)

三島弥彦の道中記

17日間の道中、三島弥彦選手が日本の知人へ送った手紙。「シベリア鉄道の汽車が案外にも汚い」「シベリアの森林は松、白樺等が主で驚くべき豊富なものである。そして綺麗で何となく神々しい」「(ストックホルムは)夜も大分暑い。今この手紙を書いている午後の11時もまだすこぶる暑い」などと書かれている。

ストックホルム大会始まる

第5回ストックホルム大会が開幕したことを伝えると共に、2回に分けてフットボール、テニス、射的などの各競技の内容とルールを詳しく説明している。

金栗 無念の棄権

陸上短距離に挑んだ三島選手は3種目とも決勝に進めず、マラソンの金栗選手は酷暑の中、試合中に倒れて棄権した。「金栗選手は不幸にも故障起こり15キロメートルにて競争を中止せるは遺憾この上もなし」としている。;xNLx;;xNLx;金栗選手は75歳の時、招待されてストックホルムへ行き、ゴールまでの残りのコースを完走して「54年8か月6日5時間32分20秒3」の記録を残した。

特派員が見た王都

大井犀花特派員は「オリムピツク競技見物」を15回にわたって連載。この回ではスウェーデン王室の王宮にふれ「現皇帝グスタフ五世陛下はこの王宮の小部分を居室として質素に暮らし居給う由」と紹介。また王族の1人が伯爵令嬢と恋に落ち王室の身分を離れ結婚した恋愛スキャンダルにふれている。

アントワープ大会へ出陣

ベルギーへ向かう選手団を東京駅、横浜港で人々が見送った様子が記されている。「やがて出発の警笛が高く響くと万歳の声が今更にいよいよ高く轟く」。文末には「行けよ海路つつがなく、しかして勝利の栄冠を戴いて帰れ!」、見出しも「行け!!捷(か)って帰れ!!」とげきを飛ばしている。

勝て!わが選手

「オリンピックに出場するわがマラソン選手の勇姿」として、茂木善作、金栗四三、三浦弥平、八島健三の4選手(左から)を紹介。4選手は足袋を履いている。最高位は金栗選手の16位(2時間48分45秒4)だった。

6日遅れの金メダル

織田選手に続き、水泳200メートル平泳ぎの鶴田義行選手が金メダルを獲得。「オリムピック新記録」、「満場の熱狂的喝采」を浴びたと記している。

水泳リレー銀メダル

水泳800メートルリレーには、米山弘、新井信男、佐田徳平、高石勝男選手が出場し、アメリカについで銀メダルを獲得した。経過として、「米山スタート遅く最後を泳いでいたが、2回よりぐんぐん抜いて2番となり、アメリカに迫った」「高石その後を受けて猛烈に頑張り(略)ワイズミュラーに迫り、その差を再び10メートルまで短縮したが遂に及ばず」と実況。

夏季五輪でフィギュア

近年のオリンピックは、大会期間が約2週間だが、最も長かったのは1908年のロンドン大会である。4月27日から10月31日までの約6か月間にわたって開催された。これほどの長期間になった理由の一つが、現在では冬季五輪の種目となっているフィギュアスケートが初めて競技種目に入ったことだ。IOCの規定では「近代スポーツに限る」という指定はあったものの、「冬季スポーツを除く」という条件はなかったため、開催地の気候や競技場の設備によっては、スケートも可能だったのだ。1920年アントワープ大会ではフィギュアスケートのほかアイスホッケーも実施された。

読売特派員座談会

メルボルン大会は、南半球で開催された初めての五輪。特派員5人による座談会を掲載。運営面では英語の通訳しかおらず、発表も遅いため、「ヘルシンキが100点なら、ここは40点」と厳しい意見もあるが、選手村を「ソ連の要求をけって、豪州当局が村を一つにしたことはある意味で大きな意義」とし、おかげで選手間の交流が良くなったと記している。

ヘルシンキ大会開幕

ボランティアが支える五輪

競技場での入場券チェックや観客の案内、選手・役員の通訳など、いまや五輪の運営に欠かせないのがボランティアだ。ボランティアが初めて導入されたのがロンドン大会(1948年)。当時は現在ほど組織化されておらず、事前の登録は不要で誰でもその場で参加ができた。女性は運転手として大活躍。乗用車はもちろん、ロンドン市内を循環する有名な赤い車体のバスや軍用トラックのハンドルを握り、会場に選手や観客を運んだ。第2次大戦直後の劣悪な環境のなか、市民のボランティア精神が大会を支えた。

英国王のスピーチ

ロンドン大会(1948年)で開会宣言をしたのは、エリザベス2世の父親で、映画「英国王のスピーチ」の主人公として一躍有名になったジョージ6世だった。映画では、吃音(きつおん)で演説が苦手だった英国王の苦悩が描かれているが、五輪の開会宣言は難しくなかったと思われる。開会宣言の文言は五輪憲章によって厳密に定められており、回数と開催都市を変える以外に余計な言葉を差し挟めないからだ。「私は第14回近代オリンピアードを祝し、オリンピックロンドン大会の開会を宣言します」。以上で終わりだ。 2002年のソルトレーク冬季五輪で、当時のブッシュ大統領は「誇り高く、決意に満ちた、偉大な国を代表して」という言葉を盛り込み、物議を醸した。

炎のランナー

映画「炎のランナー」は、パリ大会(1924年)の男子短距離で活躍した英国の青年たちの実話を基に作られている。主役はユダヤ系のハロルド・エイブラハムと、宣教師の家庭に生まれたエリック・リデル。ライバルだった2人はともにパリ五輪代表となるが、リデルは100メートル予選が日曜日と知り、「神が決めた安息日に競技はできない」と出場を辞退する。100メートルはエイブラハムが金メダルを獲得。そしてリデルも仲間が出場権を譲ってくれた400メートルで見事に優勝を果たす。若きスプリンターの青春群像は、アカデミー作品賞に輝いた名作によって語り継がれている。

世界一有名な剣士

ヘルシンキ大会(1952年)のフェンシング英国代表だったボブ・アンダーソン選手は、世界で最もその技を知られた剣士、と言えるかも知れない。映画「スターウォーズ・シリーズ」で、悪役ダース・ベイダーの戦闘シーンを演じたのがアンダーソン選手だった。引退後にスタントを始め、同シリーズの「帝国の逆襲」「ジェダイの帰還」の2作を担当。黒い仮面をかぶり、妙技を披露する剣士の正体は、役柄同様に謎だったが、主演のマーク・ハミルが雑誌のインタビューで「ベイダーの戦闘シーンを完成させた功労者」としてその名を明かした。「007」や「ロード・オブ・ザ・リング」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」などでも実技や演技指導に当たった。

グレース・ケリーの苦悩

映画「喝采」でアカデミー賞を受賞、「裏窓」などにも出演し、モナコ大公と結婚して引退した米国の美人女優グレース・ケリー。彼女の父親ジョン・ケリーは、アントワープ大会(1920年)のボート競技のシングルスカルで優勝した金メダリストだった。ジョンはスポーツマンで、一代で財を築いた優秀な経営者で、ハンサムだったという。グレースの伝記によると、彼女は幼いころから父親が自分を愛してくれないというコンプレックスに悩み、偉大な父親をアッと言わせるために女優になり、モナコ大公に嫁いだという。82年、自動車事故で52歳で亡くなるが、晩年は孤独だったとも伝えられ、その死は謎に包まれている。

映画になった五輪

オリンピックの各大会では、公式記録映画が作成されているが、東京大会(1964年)では市川崑(こん)監督が映画「東京オリンピック」を撮影した。家屋破壊の場面から始まり、試写を見た河野一郎五輪担当相(当時)が「こんな記録映画があるか。撮り直せ」と言ったというエピソードが残る。観客動員約1800万人と空前の大ヒットとなり、カンヌ国際映画祭の賞にも輝いた。

第13回大会中止

1944年の13回大会に向けて、IOCは1939年6月の総会でロンドンを開催地に選んだものの、2か月後にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。13回大会は中止となった。","dateFormat":"YYYY年

第6回ベルリン大会中止

ベルリン大会は、第1次世界大戦のため開催されなかった。","dateFormat":"YYYY年

第12回大会中止

東京の「返上」を受け、IOCは代替地にヘルシンキを選んだが、ソ連のフィンランド侵攻によって開催は不可能となり、12回大会は中止となった。","dateFormat":"YYYY年

サンフランシスコ講和条約

1951年9月8日、日本と連合国との間で対日平和条約が結ばれた。米・サンフランシスコ市内のオペラハウスで日本と連合国48か国が調印した。52年4月28日に発効し、日本は主権を回復した。

作家が描くオリンピック

オリンピックは、時代を代表する作家らのコラムの題材にもなってきた。読売新聞では1936年のベルリン大会へ「蘇州夜曲」などで知られる詩人の西條八十を派遣。西條は連日詩を作成した。女流作家・岡本かの子(岡本太郎の母)は、オリンピックから古代ギリシャの歴史や神話に思いをはせる。1964年の東京大会では、作家・井上靖が開会式の感想を寄せた。「日本の選手諸君、きょうどこの国の選手よりも美しかったように、あすから何日かをどこの国の選手よりも美しく闘ってもらいたいと思う」と結んでいる。

第1回大会は女人禁制

近代オリンピックの第1回大会は、競技者がすべて男性で、女性は参加できなかった。女性が参加したのは、第2回大会からだった。

ノーベル賞の創設

1901年、アルフレッド・ノーベル(1833~96年)の遺言にもとづき、ノーベル賞が創設された。ノーベルは、ストックホルム生まれの化学者で、ダイナマイトの発明によって巨万の富を得た実業家。当初は物理学、化学、生理学・医学、文学、平和の5部門だったが、69年に経済学賞が追加された。授賞式はノーベルの命日の12月10日に行われている。

日露戦争

1904年2月8日、日露戦争が勃発。ロシアは当時、軍事力を背景に南下政策を進め、満州(現中国東北部)の占拠に続き、朝鮮半島に地歩を固めようとした。;xNLx;;xNLx;日本海海戦での日本の勝利などを受け、米国の仲介により、1905年9月5日、日本の韓国における権益や、ロシアが持つ遼東半島の租借権の日本への譲渡などを定めるポーツマス条約が調印された。

聖火リレー 宇宙や海中へも

聖火リレーが始まったのは、1936年のベルリン大会から。最も多くの聖火ランナーが走ったのは、1964年の東京大会で10万1473人。これは日本国内での聖火リレー時に、トーチを持つ人に加えてサポートランナーなど、最大20人が1区間1キロを走ることもあったためである。 これまでに聖火は、宇宙(1996年アトランタ大会)、海中(2000年シドニー大会)、エベレスト頂上(2008年北京大会)にも届けられている。

綱引きも競技だった

運動会でおなじみの「綱引き」は、実は1900年のパリ大会から1920年のアントワープ大会までオリンピックの正式種目だった。パリ大会ではスウェーデンとデンマークの連合チームが優勝。アメリカやイギリスが表彰台を独占したこともある。これは一つの国から複数のチーム(イギリスではリバプール警察チームやロンドン警察チームなど)が出場可能だったため。競技数が多すぎることを理由に、アントワープ大会を最後に他のいくつかの競技とともに姿を消した。

ソ連と国交回復

1956年10月に日本の鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言に調印した。戦争状態の終結や国交正常化をうたい、日本の国連加盟やシベリア抑留者の帰国が実現することになった。;xNLx;;xNLx;ただ、最大の障壁だった領土問題は解決できず、国交回復を優先した鳩山首相は、「平和条約締結後に歯舞、色丹2島を日本に引き渡す」ことでソ連と合意した。

第2次世界大戦が終結

1945年5月にドイツが降伏。日本では米軍が4月に沖縄本島に上陸、8月に広島と長崎に原爆を投下。8月9日未明にソ連が日ソ中立条約を破り満州(現中国東北部)に侵攻した。;xNLx;;xNLx;日本政府は8月14日、無条件降伏となるポツダム宣言受諾を決め、翌15日に終戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」がラジオで流された。;xNLx;

真珠湾攻撃、太平洋戦争へ

1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の機動部隊が米ハワイ・オアフ島のパールハーバー(真珠湾)の米太平洋艦隊に奇襲攻撃を行い、太平洋戦争へ突入した。

第1次世界大戦はじまる

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子の暗殺(サラエボ事件)を契機に第1次世界大戦が勃発。30か国余が、仏英露を中心とする「連合国」と独、オーストリアなどの「同盟国」に分かれ戦った。戦闘機や戦車をはじめ、化学兵器も使用され、1918年の休戦までに軍人だけで1000万人近くが死亡した。日本も連合国側に参戦した。

日韓併合

20世紀初頭に朝鮮半島で実質的支配を強化していた大日本帝国は1910年8月22日、李氏王朝の大韓帝国との間で併合条約を締結。同条約は同月29日に発効し、半島は、日本が第2次世界大戦で敗北した1945年まで、植民地として支配された。

辛亥革命

1911年10月10日、湖北省武漢で起きた武装蜂起を契機に、満州族が支配する清朝が倒され、古代以来の王朝体制に終止符が打たれた。12年1月1日、革命を主導した孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立した。

タイタニック号沈没

1912年4月14日深夜、英豪華客船タイタニック号が大西洋横断の処女航海中、濃霧のためニューファンドランド島沖で氷山に衝突して沈没。1500人以上の乗員乗客が死亡する大惨事となった。;xNLx;;xNLx;船は総重量4万6300トンの当時世界最大最新の豪華客船で、4月10日に英サウサンプトン港から仏、アイルランドを経て米ニューヨークに向けて出発した。

第2次世界大戦はじまる

ソ連と独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月1日、ポーランド・ワルシャワに向けて侵攻。これに対し英国、フランスが3日、対独宣戦布告し、第二次大戦の幕が切って落とされた。;xNLx;;xNLx;第一次世界大戦後のベルサイユ体制下で、厳しい責任を問われたドイツは、この体制打破と民族自決を目標に掲げ、強力な指導力を持つ全体主義的な体制樹立をもくろんだ。その時流に乗じてヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭し、再軍備を進め、再びヨーロッパでドイツの覇権を確立しようとした。

世界恐慌

1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の株価が大暴落、これが発端となり、30年代の世界を大不況が覆った。24日は朝方から売り一色になり、株価は一時、前日終値比で11%下落し、「暗黒の木曜日」と言われた。株価が恐慌前の水準に戻るのは、それから25年後のことだ。結果、米国では銀行が相次いで破綻(はたん)し、景気の底となった33年の米失業率は25%まで悪化した。

朝鮮戦争勃発

1950年6月、北朝鮮が韓国へ侵攻し朝鮮戦争が始まった。米国など16か国は韓国支援のため「朝鮮国連軍」を派遣。国連軍が中朝国境まで迫った50年10月、中国は北朝鮮支援のため「中国人民志願軍」を参戦させた。53年7月に休戦協定が成立した。

満州事変

1931年9月18日、日本の関東軍は中国東北部(旧満州)・奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道線を爆破し、侵略的行動を開始した。日本政府は不拡大方針を決めながら軍の行動を追認した。半年後の32年3月には清朝の廃帝・溥儀(ふぎ)を執政とする満州国が建国された。満州国には関東軍が駐留した。;xNLx;;xNLx;国際連盟の総会で、リットン調査団報告に基づく勧告が採択されると、全権代表の松岡洋右は連盟脱退を通告して退場した。日本が国際社会で孤立化を深めるきっかけとなった。

プロ野球球団の創設

1934年12月26日、日本初のプロ野球チームとして「大日本東京野球倶楽部(現巨人)」が結成された。きっかけは読売新聞社が34年に開催した日米野球。ベーブ・ルースら米・大リーグ選抜チームが来日して親善試合を行ったが、その際に結成された全日本チームが母体だ。;xNLx;;xNLx;倶楽部には投手に沢村栄治、ロシア人のスタルヒン、内野手に早稲田大の三原修、法政大の苅田久徳、慶応大の水原茂、外野手に早大出身の中島治康らをそろえた。;xNLx;

2・26事件

1936年2月26日、陸軍の青年将校らが「昭和維新の断行」などを叫んで決起。約1400人の部隊を率いて、大蔵大臣、内大臣、教育総監らを次々に殺害した。約3日後に鎮圧され、未遂に終わった。2人が自決、死刑判決を受けた計19人のうち、15人が同年7月12日に、残る4人は翌年8月19日にそれぞれ処刑された。これ以降、軍部の力が強くなっていった。 

関東大震災

1923年9月1日午前11時58分に相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。死者は10万人以上に上った。軍服製造工場の跡地だった東京都墨田区の「陸軍被服廠跡」は当時は空き地で、地震直後、住民が避難のため殺到、身動きが取れないような混雑状態の中、火災に襲われて約3万8000人が亡くなった。

日本でテレビ放送開始

1953年2月1日午後2時、「JOAK―TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」というアナウンスとともにNHKがテレビ放送を本格的に開始。当日の受信契約数は866、受信料は月額200円だった。民放では、その年8月28日に日本テレビが開始した。

次は東京で会いましょう

ローマ大会の終了に際し、発行された号外。「東京で会いましょう」という電光掲示板の写真を掲載し、各選手団の帰国日程を紹介している。また、ローマとの時差のため、競技結果が朝刊に間に合わないことから連日発行していた、オリンピック号外の終了も伝えている。

東京へ五輪招致 再び

幻の東京大会から19年、日本は再び五輪招致に成功した。ドイツ・ミュンヘンでのIOC総会にて、候補地を選考する1回目の投票で、日本は半数以上の34票を獲得し、「東京オリンピックは予想以上にあっさりと決まった。全くあっけないほどの決まり方だった」と報じている。

田中、戦後女性初メダル ローマ大会

競泳では女子100メートル背泳ぎ決勝で田中聰子選手が粘り銅メダルを獲得。不振が続いていた女子競泳界で久々のメダルであり、日本人女性選手としては3人目のメダリスト。

日本体操、世界に輝く

男子体操陣は金4個、銀2個、銅3個のメダルを獲得した。団体総合は「日本は自信のある跳馬からスタート、金メダルを目前にしてやや堅くなっていた」が、続く平行棒、鉄棒でも若手がすばらしい演技を見せ、会場を沸かせ優勝。さらに個人では徒手で相原信行選手が、鉄棒と跳馬で小野喬選手が優勝した。

夢破れたレスリングチーム

2大会連続で金メダルを獲得していたレスリングは計16人の選手をエントリーしたものの、フリースタイル・フライ級に出場した松原正之選手が銀メダルを獲得したのみ。全員入賞の夢も破れ、日本アマチュアレスリング協会の八田一朗会長以下、全員が頭を丸坊主にした。「羽田へのおみやげは金メダルのかわりに坊主頭をそろえるという結果となったが、こんごどれだけ奮起してくれるか楽しみだ」と結んでいる。

東京大会 開幕

アジア初の五輪、東京大会の開幕を伝える夕刊の一面。開会式には94の国と地域が参加し、競技種目も163にのぼった。開会式のあいさつでは、録音された近代オリンピックの父・故クーベルタン男爵の肉声メッセージを会場で流した。「一つであるべき世界の理想の姿を象徴して、行進した」と記している。;xNLx;

三宅、完全優勝

日本待望の金メダル第1号は、ウェイトリフティング・フェザー級の三宅義信選手が獲得した。9回の試技に全て成功する完全優勝で、試合を観戦されていた皇太子夫妻の前で表彰台のトップに立ち、「満場の歓呼と拍手を浴び」た。三宅選手の姪の宏美選手は、2016年のリオ五輪・ウェイトリフティング代表。

東京オリンピック幕閉じる

「かぎりない感動と思い出をわたくしたちの心に残して、その幕を閉じた」という表現から、アジアで初めての五輪大会を成功裏に終えた満足感が伺える。閉会式で各国の選手が笑顔で交流。「四千人のわこうどが織りなす友情の隊列。それこそ人類の祭典の、フィナーレであった」とたたえている。;xNLx;;xNLx;東京大会で日本勢は、アメリカ、ソ連に続いて3番目となる金メダル16個を獲得、銀は5個、銅は8個の活躍ぶりだった。","externalLink":"http://www.yomiuri.co.jp/special/olympic/

優勝決めたウルトラC

前回大会で活躍した男子体操陣は、今回も発奮し、金メダル5つを獲得する。五輪初出場でつり輪で優勝した早田卓次選手(画像)は「挙足から上水平、前方、後方の車輪をうまくやりわけて十字懸垂も見事だった」という。日本は団体総合、個人総合と平行棒で遠藤幸雄選手が、跳馬で山下治広選手が優勝している。

マラソン円谷 堂々3位

東京大会の年に初めてマラソンに挑戦し、トラック競技に加えてマラソンでも日本代表になった円谷幸吉選手。彼がもたらした銅メダルは、五輪の陸上競技では28年ぶりのメダルだった。;xNLx;;xNLx;優勝はエチオピアのアベベ選手で五輪史上初の二連覇で最高記録をたたき出した。アベベ選手が先頭で競技場に戻ってきた時の様子を、「スタンドの大観衆は、棒立ちになり、涙さえ浮かべ、自制心を失い、波のどよめきとなった」と記している。

東洋の魔女、初代王者に

今大会から登場した女子バレーボール。大会最終日、「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表は宿敵ソ連に勝ち、金メダルを獲得し初代チャンピオンに輝いた。日本女子選手が五輪で金メダルを獲得したのは、28年前のベルリン大会以来。;xNLx;;xNLx;五分の戦いという事前予想を覆し、3-0のストレート勝ちだった試合結果に、大松博文監督は「苦しい練習から生み出されたチームワークが、金メダルに結びついた」と選手の健闘を称えた。

レスリング2つの金

前回大会で唯一金を獲得したレスリングには、大きな期待がかかっていた。池田三男選手は、それまでの日本代表選手が軽中量級で活躍していた中、ウエルター級(74キロ級)で優勝した。フェザー級の笹原正三選手も金メダルを獲得した。

レスリング、初めての金

レスリング・フリースタイル・バンタム級で石井庄八選手はソ連の選手を破って優勝、今大会唯一の金メダルだった。「日本にレスリングが行われて25年目、はじめて獲ったオリンピック・チャンピオン、そしてベルリン以来16年ぶりの日の丸」、「私のそばにいるフィンランド人がいつの間に覚えたか私たちの顔を見てバンザイ、バンザイと片言に言い道をあけてくれる、明日から私たちはヘルシンキで胸を張って歩ける」としている。

無念のトビウオ、古橋8位

水泳で「フジヤマのトビウオ」と世界で称えられた古橋廣之進選手だったが、結果は400メートル自由形で8位だった。記録更新が期待できた1948年のロンドン大会は日本の参加が認められず、すでにこの大会では競技人生のピークは過ぎており、さらに体調も崩していた。;xNLx;;xNLx;「捨身の力泳を展開」でも結果を残せなかったものの、それまでに33回も世界記録を樹立しており、実況アナウンサーは「古橋選手は戦後日本の光明でした。今敗れる古橋選手を、日本のみなさま、どうか責めないでください」と涙声で訴えた。

五輪に”鉄のカーテン”

「五輪はブルジョアジーの大会」と拒絶していたソ連が、今大会から参加したが、ほかの国の選手と交わらないよう別の地区に専用の選手村を設営させたという。記事では「三人寄れば話はそこへ行く、もちろん赤い国々のこと」と報道陣の興味が高まっていることを記している。;xNLx;;xNLx;読売新聞記者がロシア選手に取材したが「ニエット(ノー)」「カメラを向けるとサっと顔をかくしてヨットに飛びこむ」「だれが質問しても答えない」状況だったという。

舞台裏を事前取材 ヘルシンキ大会

開会から2週間以上前に、読売新聞は現地に記者3人を派遣し、ニューヨークを経由した国際電話で様子を聞いている。選手村について「日本はインド、韓国など米をたべる国同士と同じ時刻で」食べ、日本からは米を5俵、「ミソ、しょうゆ、ワカメ、切干大根など」を持参したという。

ロンドン大会、招待されず

第2次世界大戦終結後の1948年にロンドン大会が開かれた。しかしながら日本とドイツは招待されていない。

東京五輪の中止決定

「紀元2600年」に合わせて招致した東京大会だったが、1937年7月に日中戦争が始まり、準備は進まず、国際社会からの批判も高まっていった。「政府は現下挙国一致物心両方面の総動員を行い聖戦目的の達成に邁進しつつある情勢」にあるとして、五輪開催を「返上」することが閣議決定された。

終盤を飾る日の丸

独特の「潜水泳法」が得意だった水泳の古川勝選手は、200メートル平泳ぎ決勝で五輪新記録をたたきだし、メルボルン大会に出場した水泳代表選手のなかで唯一金メダルを獲得。同種目の吉村昌弘選手も銀メダルに輝いた。その後、潜水泳法は禁止されてしまう。

前畑ガンバレ!

水泳では、800メートルリレーで日本チーム(遊佐正憲、杉浦重雄、田中正治、新井茂雄)が世界新記録(8分51秒5)をたたき出し、見事優勝。女子200メートル平泳ぎで前畑秀子選手が優勝し、日本人女性初の金メダリストに。約3分の中で「ガンバレ」を24回も叫んだラジオ実況は、大反響を呼び、レコード化もされた。

次は東京だ!

日本はこの大会で金6、銀4、銅10のメダルを獲得。参加選手は過去最高の179人となった。閉会式では大日本体育協会を代表して平沼亮三氏が「第12回大会東京開催を告げて満場の歓呼を浴び」たという。;xNLx;;xNLx;しかし約1年後の1937年には日中戦争が勃発。国内では軍部の発言力が増し、五輪準備どころではなくなっていった。

念願のマラソン優勝

「宿願の世界制覇は遂に成った」とあるように、五輪初参加のストックホルム大会以降、念願だったマラソンでの金メダルを獲得したのは孫基禎選手。孫選手は現在の北朝鮮・新義州生まれ。当時朝鮮半島は日本の植民地支配下にあり日本代表として出場した。;xNLx;;xNLx;この時、東亜日報紙が孫選手の服の日の丸を消した写真を掲載し、発行停止処分を受ける「日章旗抹消事件」が起きた。

三段跳び、3大会連続優勝

三段跳びに出場した田島直人選手は「快適極まる三階調のリズムに乗って跳びも跳んだり16メートル!」で世界新記録を出し優勝。日本にとっては3大会連続優勝に。また原田正夫選手も2位、大島鎌吉選手が6位で出場選手全員が入賞した。;xNLx;;xNLx;「我々大会にやって来たものは、すべてこの一瞬をどんなに待ち焦がれたことか、涙は知らず知らず落ちてくるのであった」「はるかに揚がる大日章旗を眺める時、真の幸福にひたることができた」と記している。

友情のメダル 誕生

棒高跳びには3人が出場。最終的に西田修平、大江季雄の2選手、アメリカの2選手の4人の日米決戦に。午後8時過ぎ。初めての夜間照明のもとで4メートル35に挑戦し、米・メドウスのみが成功。残る3人はバーを10センチ下げても失敗し、さらに10センチ下げて、西田と大江の両選手が成功した。すでに競技開始から5時間半が過ぎ、寒さと疲労で体力は限界。審判は「決定は日本に任せる」とし、最初の4メートル25を一回目でクリアしていた西田選手が2位、大江選手が3位となった。;xNLx;;xNLx;翌年、2人の希望でメダルを分割、半分ずつつなぎ合わせた「友情のメダル」が生まれた。

ナチス演出のベルリン大会

特派員からの電話を使った臨場感ある記事になっている。「わが代表チームは(略)全員紺のブレザーコートにグレイのパンツあるいはスカートのうつりもさっそうと軽快な戦帽に力強い歩調」、ヒトラーの開会宣言の後、「平和の聖戦を伝える3万の伝書バトは参加各国旗を染め出したリボンを首に翻して喜々として」舞い上がった。;xNLx;;xNLx;読売新聞はベルリンに飛行機を飛ばし、上空を祝賀飛行した。;xNLx;;xNLx;1948年のロンドン大会まで実施されていた芸術競技(絵画部門)で、日本は最初で最後となるメダル(銅)を二つ獲得した。

五輪 東京開催決定

ベルリンで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)の総会で、次の大会が東京で開催されることが決まった。東京36票対ヘルシンキ27票、「『近代スポーツ精神』の大祭典は西半球に転々聖火を点ずること四十年、今こそはじめて東洋に歴史的な歩みを延べた」。;xNLx;;xNLx;号外(画像3、4)では決定後の日本委員について「各国委員から祝辞と握手の総攻撃をうけながら、まるで夢みるような面持ちで議場からゴムマリのようにころがり出して」「喜びを語っている間もこの二人の老人の手と手はシッカリ握り合わされ」「ただ感激の涙あるのみ」と記している。

初の聖火リレー出発

ベルリン大会から始まった聖火リレーは、ギリシャのオリンピアで太陽光線から採火した聖火を開会式当日にメーンスタジアムに運ぶという、古代と近代とを結ぶ壮大なロマンだった。隣の記事では陸上で日本が安心して金メダルを期待できるのは三段跳びのみと予想している。

「五輪」の誕生

オリンピック旗がロサンゼルスからベルリンへ到着したことを伝えている。この時初めて「オリンピック」が「五輪」と表現された。これは当時読売新聞運動部の記者だった川本信正氏が、6文字では長いため代わりの言葉を探していたところ、菊池寛の随筆に出ていた宮本武蔵の「五輪書」からヒントを得て思いついた。

水の日本、世界を征する

前回大会で水泳200メートル平泳ぎで優勝した鶴田義行選手は、今大会も同種目で金メダルを獲得、2位は16歳の小池禮三選手だった。1500メートル自由形では14歳の北村久寿雄選手が優勝し17歳の牧野正蔵選手が2位。「見よ、日本少年の威力」と報じている。このほか100メートル自由形、同背泳ぎなども日本勢が制した。

バロン西、ウラヌスと優勝

閉会式直前に行われた馬術大賞典障害飛越個人で、ウラヌスにまたがった西竹一選手が優勝した。男爵の爵位を持っていたため「邦人観衆はもちろん外人まで『バロン・ニシ、バロン・ニシ』と連呼して」賞賛を送った。;xNLx;;xNLx;西選手は1945年3月に硫黄島で戦死。アメリカ軍は「オリンピックの英雄、バロン西。軍人として責任を果たした。あなたを失うことは耐えられない。出てきなさい」と投降を呼びかけたが応じず、ウラヌスのたてがみを最後まで離さなかったとされている。遺骨は約30年後の1978年に確認され、遺族の元に戻った(画像2)

水泳リレーで金メダル

ロサンゼルス大会では水泳陣が目覚しい活躍をみせた。男子は6種目中5種目で日本人選手が優勝。800メートルリレーでは「水の超特急」と呼ぶ宮崎康二、遊佐正憲、豊田久吉、横山隆志の4選手が後続のアメリカを18メートル突き放し世界新記録で優勝。また女子の前畑秀子選手は200メートル平泳ぎで「タッチの差で」2位となった。

南部、三段跳びで金

南部忠平選手は走り幅跳びの世界新記録保持者(7メートル98)で優勝の期待がかかっていたが、3位に。一方、織田幹雄選手らエースが故障したため急遽出場した三段跳びで金メダルを獲得。「待ちに待った荘厳な『君が代』は大会開始以来初めて太平洋の黒潮越えたロサンゼルスの大競技場に鳴り響いた」。

ジャンプ!ジャンプ!

「世界オリムピックへ出場する我が馬術選手」として出場選手やその愛馬を紹介している。全員が騎兵大尉、騎兵少佐などの軍人。馬術は帝国陸軍の威信を示す狙いもあったという。;xNLx;;xNLx;後に金メダルを獲得した西竹一選手の愛馬(中央)については「仏産サラブレット半血のウラヌス号で、一昨年スイス・ルテルン国際競技会障害に第一位を獲得した名馬である」と紹介している。

オリンピックの応援歌

大日本体育協会とオリンピック後援会による応援歌が作られた。作詞作曲は慶応の応援歌「若き血」の作曲者で知られる堀内敬三氏。「占めよ世界の王座 挙げよわが勝どき」「絶東の民は誇る 武士の魂」「開け、世界の耳目 日本は起ちたり」など、世界を意識した歌詞。

大選手団 ロス大会へ

前回のアムステルダム大会の3倍以上となる131人(うち女子は16人)の選手が参加した。「競い闘え、祖国日本の猛士たちよ、ロサンゼルスの蒼穹高く日章旗が翻るとき新興スポーツ国日本の歓喜は爆発するのだ」と太字で強調。「世界一流の心霊学者」というアイリーン・ギャレット氏の日本が優勝するという予言を掲載している。

ネー早くいらっしゃいよ

ロサンゼルス大会が開かれる1932年の元旦の「サンデーグラフ」で、「オリンピックを目指す我がチャンピオンシップ」の見出しで、活躍が期待される陸上や水泳の選手らを見開きで特集。陸上の織田幹雄選手や女子水泳の前畑秀子選手らの顔も。;xNLx;;xNLx;次のページ(画像2)では、アメリカの選手の写真に「ロサンゼルス嬢の曲線美-ネー早くいらっしゃいよ・・・と女流水泳選手が新設のプールでジャブジャブ」の見出しが。

女性メダリスト誕生

人見選手はこの時21歳。優勝の呼び声が高かった陸上100メートルは準決勝で敗れたが、公式に参加したことのない800メートルに急きょ出場し銀メダルに輝いた。記事では「オリムピックで気を吐く我が人見絹枝嬢」と写真を紹介。;xNLx;;xNLx;日本人選手の活躍をたたえる一方で、女性選手については「女子一人では外出することにひどく懸念を抱く家庭がありまして、よき選手を送ることが出来ない」と当時の情勢を記している。

日本人初の金メダリスト

日本人初の金メダリストとなったのは、三段跳びの織田幹雄選手で、記録は15メートル21。「織田もまた恐ろしく長い距離を跳んで記録係のペンは動いた」「初めて日章旗檣頭(しょうとう)にひるがえる」などと伝えている。

日本人初のメダリスト誕生

この大会で日本は初のメダルを2個獲得した。男子テニスの熊谷一弥選手(銀)、そしてテニスダブルスの熊谷、柏尾 誠一郎両選手(銀)だ。熊谷選手は当時三菱合資の米国駐在員。;xNLx;;xNLx;この記事では関係者らの熊谷選手に対する評価として、「足並みは驚くべき程敏捷にして打球は低く、ネット際のヴォレイングは極めて美事也」と伝えている。

パリ大会出場選手を歓迎

東京スポーツマンクラブの主催で、パリ大会出場選手らの歓迎会が開かれた。日本は前年の関東大震災で大きな被害をこうむっていたが、19人の選手を送り出した。

レスリングで銅メダル獲得

パリ大会でメダルを獲得したのは、レスリング・フリースタイル・フェザー級に出場した内藤克俊選手(銅)。柔道二段の内藤選手は鹿児島高等農林学校卒後、単身で渡米し入学した大学でレスリングに出会った。当時日本にはまだレスリングは知られていなかった。「きのう帰朝した世界的レスラー内藤勝敏君(記事原文ママ)」と写真で紹介されている。

アムステルダム大会開幕

アムステルダム大会に日本から43人が参加したが、うち1人は初の女性(人見絹枝選手)。開会式では「イタリーとリトアニアの間に日本と書いた盾を持った高い選手を先頭に中澤選手日の丸の旗を高くささげてこれにつづき、次いで選手側は人見嬢を先頭に陸上、水泳、ボクシング、ボートの順にて行進し中央に至り」と記している。後に首相となる広田弘毅公使も参列した。

アムステルダム大会閉幕

日本は、高石勝男選手が水泳100メートル自由形で3位となり、計5個のメダルを手にした。この紙面では、日本の水泳での活躍ぶりを「世界水泳界に雄飛する地位を占めることとなった」と賞賛。閉会式の記事は「運河運河をさびしい海風が渡ってアムステルダムの古都はようやく以前の静寂に立ち返らんとしている」と結んでいる。

コナン・ドイルも興奮

1908年のロンドン大会、マラソンでは劇的な展開が待ち受けていた。先頭で競技場に戻ってきたイタリア人のドランド選手が、トラックで何度も倒れ、スタッフの補助を受けたために優勝が取り消しとなったのだ。この様子を観戦していたのが、シャーロック・ホームズ・シリーズの作家として知られるサー・アーサー・コナン・ドイル。英・ガーディアン紙によると、コナン・ドイルは、ドランド選手が何度も倒れ、立ち上がる姿に「(ゴールという)目標と、極限にまで疲弊した身体との間でもがく姿は、悲惨でありながらも惹きつけられる」と記している。

体操ニッポン 開花

この大会で男子体操は「メダルラッシュ」となり、その後の大会へ続く「体操ニッポン」の幕開けとなった。団体総合で銀メダルを獲得したほか、小野喬選手が種目別鉄棒で優勝、あん馬と個人総合で2位、平行棒でも3位に。合計で金1、銀5、銅5の11のメダルを獲得した。

ロシア革命

1917年2月27日(新暦で3月12日)、大戦の影響で極度の食糧、燃料難に陥った首都ペトログラードで、労働者のゼネスト、デモ隊と警察・軍の衝突など混乱が広がる中、国会内に旧政権を引き継いだ「臨時委員会(後の臨時政府)」と「労働者・兵士代表ソビエト」の二重権力が誕生し、皇帝専制体制は終結した。皇帝ニコライ2世はこれを受けて退位し約300年続いたロマノフ王朝が終わった。;xNLx;;xNLx;10月25日(同11月7日)には、レーニン、トロツキー率いるボリシェビキ(社会民主労働党の多数派)が武装蜂起し、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の冬宮に立てこもっていた臨時政府を打倒した。レーニンは翌26日、ソビエト政権樹立を宣言した。

ベルサイユ条約調印

1919年6月28日、第1次大戦の講和条約がフランスのベルサイユ宮殿・鏡の間で調印された。戦争責任はドイツにあるとされた。ドイツは1320億金マルク(一説には現在の貨幣価値で40兆円以上)の賠償支払いが義務付けられ、これが負担となって経済が破綻(はたん)に追い込まれたため、戦勝国側も賠償額の軽減を図った。

500選手アンケート

読売新聞は、東京大会を前にして、海外選手500人に普段のトレーニングや日本の印象をアンケート。「やはり外国人の日本観には、むかしながらのゲイシャ・ガール、フジヤマの日本といった印象が強いようだ」と記している。;xNLx;;xNLx;「アクタガワの本を読み、日本人の生活についてはあらましわかっている」というコメントや、「非常に刺激的な都会」、「ぎっしり車がつまった交通難」など、率直な意見が集められたようだ。また、何度か来日経験のある選手からは「心からの歓待を受け、しあわせだった」という、“おもてなし”へのお礼も。

レスリング、雪辱を果たす

前回のローマ大会で銀メダル1つに終わったレスリングチームは、雪辱を果たし最終的に5つの金メダルを獲得した。八田一朗・日本アマチュアレスリング協会長のインタビューにある「柔道、相撲、合い気道、腕相撲にいたるまで、格闘技に関係あるものはみんな研究することにした」というコメントから、いかに東京大会まで必死だったかが想像される。;xNLx;;xNLx;フリースタイルでは、決勝リーグに勝ち進んだフライ級の吉田義勝、フェザー級の渡辺長武選手らが危なげなく勝利し、バンタム級の上武洋次選手も劇的な逆転で3人がそれぞれ金メダルを獲得した。2日後のグレコローマンスタイルでは、フライ級の花原勉、バンタム級の市口政光選手も優勝した。

日本、オリンピック復帰へ

日本はヘルシンキ大会からオリンピックへの参加を正式に認められることになるが、それを前に、「来る1952年にオリンピック五輪旗がフィンランドの空にひるがえるとき、おそらく日独両国の運動選手たちも約6000の各国選手に伍してヘルシンキの新競技場でオリンピックの宣誓をすることになろう」としている。

メルボルン大会開幕

南半球初となる大会がオーストラリア・メルボルンで開催された。

人類、宇宙へ

1961年4月12日、宇宙飛行士ガガーリンを乗せたソ連の人工衛星「ボストーク(東)1号」が打ち上げられ、地球を一周した。飛行時間は1時間48分。人類で初めて宇宙に飛んだ彼は「地球は青かった」という言葉を残した。この快挙は国家の威信をかけソ連と宇宙開発を競っていた米国に衝撃を与え、モスクワの赤の広場では10万人以上が集まり祝賀式典が開かれた。

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