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 1964年10月10日。半世紀前の国立競技場には万国旗がなびいていた。その日の東京の空は、どこまでも青く、どこまで高く――。「世界中の青空」を全部集めてしまったかのような好天だった。見上げる者が吸い込まれそうな秋の空に、航空自衛隊ブルーインパルスの編隊がくっきりと五つの輪を描き出し、平和とスポーツの祭典は幕を開けた。

読売新聞が保存する記事、写真をもとに、
あの時の感動をもう一度、呼び起こしてみよう。

第1章

生まれ変わる東京

 「開催地はトウキョー」。1959年5月、西ドイツ(当時)のミュンヘンで開かれたIOC総会で、東京は総数58票中34票を得る圧勝で、アジア初となる五輪開催を決めた。

 5年後の開催を目指し、東京では首都高速道路や地下鉄、モノレールなどが目を見張る勢いで整備されていく。その中で、世界の耳目を集める建築物も生まれた。「建築は、感動を与えなければならない」を持論とする建築家、丹下健三が設計した競技会場だった。

招致決定の知らせに、国内はお祭り騒ぎに。東京都職員たちも、日の丸を振り、バンザイを繰り返した。

開催決定を祝して、日本体育協会には日の丸の間に挟まれて一足早く「五輪旗」がお目見えした。

建築家、丹下健三と国立代々木競技場体育館の模型。観客席に柱が1本もない独特の構造に世界が驚いた。

工事が進む国立代々木競技場体育館。130メートルの間隔で建てられた2本の主柱で屋根をつり下げた。

体育館は2本の主柱にケーブルを架けた独特な構造で、建設途中の姿はまるで「つり橋」のよう。

完成した国立代々木競技場体育館。当時のIOC会長も「美を愛する人々の記憶に刻み込まれる」と激賞した。

メインスタジアムとなった国立競技場も、五輪開催に備えてスタンド拡充など大規模な改修を受けた。

メインスタジアムとなった国立競技場の改修工事には、当時の閣僚らが次々と視察に訪れた。

インフラ整備も国を挙げて行った。池田首相(手前右)も道路工事の現場に足を運び、進展状況を確認した。

政敵同士もしばし休戦。当時の自民党は派閥争いが激しかったが、ライバルが仲良く視察することもあった。

開会式の3か月前に試験運転する東海道新幹線。開業は10月1日で開会式にギリギリ間に合った。

第2章

メイド・イン・ジャパン

 世界の注目を集めた東京五輪は、日本の技術力を海外に知らしめるきっかけにもなった。たとえばタイム計測の技術。精密時計といえば当時はスイス製の独壇場だったが、東京五輪では1000個を超える国産時計が活躍。いまでは当たり前となった、水泳の電子式自動審判装置「タッチ板」がお目見えしたのも、実は東京五輪が初めてだった。

 メイド・イン・ジャパンが競技判定や記録配信の電子化を一気に推し進めた。東京五輪は「科学のオリンピック」とも評された。

東京五輪の計測用時計は「オール国産」。セイコーで知られる当時の服部時計店の機器も採用された。

スタジアムに掲げられる大型時計にも、日本製を誇るように「SEIKO」の文字が。

水泳競技で導入された「タッチ板」のテスト風景。結果は即座に会場の大型電光掲示板で表示された。

開発で困難だったのが、プールの波による水圧。手で触ったことを識別できるよう様々な工夫が凝らされた。

記録の速報配信には電子計算機が導入された。新記録、タイ記録などがただちに判別できることが自慢だ。

「ロンジン、オメガが目標だった」。開発者たちは、スイスの名だたる精密時計を超えたと胸をはった。

東京・神宮外苑に用意された競技成績の速報装置。ここからニューヨーク、パリなど世界各国に配信された。

各競技場から集めた成績などのデータを一か所に集約。電子計算機がフル活用されたのも東京五輪が最初だ。

警備体制も全面的に機械化。警視庁の警備本部には、現場の状況がわかる無線テレビなどが導入された。

聖火を点(とも)すトーチには、煙が出すぎないよう工夫を凝らし、雨が降っても消えない燃料などを使用した。

第3章

「おもてなし」

 文字の代わりに絵文字を使った案内表示「ピクトグラム」を競技場や公共施設で使用する先駆けとなったのも東京五輪だった。一目でわかるそのデザインは田中一光、福田繁雄、横尾忠則ら、昭和を代表するグラフィックデザイナーたちが手がけた。

 国際オリンピック委員会(IOC)など外国からの要人の世話役を担ったのは、選ばれた34人のコンパニオンたちだ。池田首相(当時)の次女、三女らも名を連ねた。

 まさに国を挙げての「おもてなし」となった。

国立代々木競技場体育館に勢ぞろいしたコンパニオン。語学力、国際的な社交経験などが選考基準となった。

選手らに贈られた記念の「ハッピコート」。法被がモチーフで、日本にちなんだ贈り物として選ばれた。

表彰式でメダルを運ぶ「ミス・メダル」たちは和服姿。本番を前に、浴衣を着て練習した。

海外客を対象に、東京・台東区では「江戸みやげ」として、ちょうちんや扇子の土産物セットを用意した。

競技会場や公共施設などに設置された、絵文字を使ったピクトグラムは「後世に残るデザイン」となった。

着物の着付けを体験するおもてなし。フランス代表チームの選手たちは「トレビアン」とご満悦の様子。

ソ連代表(当時)のレスリングチームは浅草などを見学。「トウキョウはおもしろい街」と満足そう。

警視庁は、外国人講師を招いて英会話教室を開催。突然の道案内にも英語で対応できるようにした。

電話交換手も外国人観光客が増えるのに対応するため、英語を猛特訓。彼女たちは「声の外交官」と呼ばれた。

上野に開設された臨時観光案内所には「INFORMATION CENTER」と誇らしげに英語表記が。

開会式を目前に控え、都庁本庁(当時)も五輪モード。万国旗などがお目見えし、歓迎ムード一色となった。

第4章

スポーツの祭典

 胸と背中に誇らしげにあしらった「NIPPON」の文字。日本代表のトレーニングウェアの斬新なデザインに、当時の日本オリンピック委員会(JOC)関係者が「これなら各国選手団もうらやましがるだろう」と誇らしげに語ったことが報じられている。

 90超の国と地域の選手たちが集まった東京五輪。大会本番が近づくと、各国選手団が次々と選手村入りした。「ハダシの王様」と呼ばれたマラソンのアベベ選手(エチオピア)ら有名選手たちの来日に、日本中が沸いた。

トレーニングウェアも、ブレザーなどと同様に「日の丸」にあやかって赤を基調としたデザインに。

ボート日本代表の練習風景。世界の強豪が集う五輪本番に向けて、選手たちも次第に緊張感を高めていった。

レスリング日本代表は「いつでもどこでも眠れる太い神経」を養うためにと、「ごろ寝」の特訓を導入。

「決戦体制」「目の色変えて選手強化」。五輪本番を控え、報道もボルテージが高まっていった。

アベベ選手を先頭に羽田に降り立ったエチオピア選手団。「ハダシの王様」は国内でも大きな注目を集めた。

チャーター機で到着の英国選手団。「ピンクのブラウス」「紺のチョッキ」など女性選手の私服も注目の的。

日本選手団の正式ウェア。公式ユニホーム(中央2人)のほか、トレーニングウェア(右)やブレザーも用意された。

羽田に降り立った米国代表チームのヨット。選手だけでなく、競技で使用する機材も次々と航空機で到着した。

当時は東西冷戦のさなか。統一チームを組んだ東西ドイツだが、お互いに練習時間はバラバラだった。

代々木の選手村で陽気に騒ぐ各国の選手たち。東京五輪では、人種や政治の垣根を越えた交流も生まれた。

選手村で行われた初の入村式。韓国、コンゴなど4か国の選手団が参加。国歌演奏などが行われた。

日本選手団の入村式は開会式直前。ドイツ、イタリアなど7か国とともに行われた。

第5章

点された聖火

 東京五輪に対する盛り上がりを一気に高めたのが「聖火リレー」だ。大会2か月前の1964年8月、ギリシャで採火された聖火は、海外12都市でのリレーを経て、特別機で日本へと運ばれた。

 国内での聖火リレーは、当時はまだ米国の統治下にあった沖縄からスタート。10万人の走者を経て、東京に到着した。そして迎えた10月10日の開会式。最終ランナーの手で、聖火台に火が点(とも)されると、熱狂は最高潮に達した。

開会式前、聖火の第一走者、ギリシャのマルセロス選手と、最終走者の坂井義則さんが対面。固い握手をかわした。

聖火リレーは1964年8月、ギリシャで行われた採火からスタート。マルセロス選手へと手渡された。

聖火を運んだ「シティー・オブ・トーキョー号」。世界各地をまわって日本へと戻った。

開会式の空撮写真。当時のキャプションには「雲のかげ一つない国立競技場を埋めた大観衆」とある。

聖火台に聖火を点(とも)す、最終聖火ランナーの坂井さん。後に「目の前には空しかなかった」と振り返った。

各国選手団の最後に、日本選手団が入場。会場はひときわ大きな歓声に包まれた。

選手宣誓する日本選手団の小野喬主将。鉄棒の鬼も「世界が注目する中、緊張した記憶しかない」と振り返った。

 読売新聞が2011年の全国世論調査で「昭和時代を象徴する出来事」を尋ねたところ、トップになったのは1964年の東京五輪だった。戦後復興から高度成長期へとつながるシンボル的な存在で、多くの人たちに鮮烈な記憶として残っているからだろう。

 あれから半世紀がたち、次の五輪開催が迫っている。2020年の東京五輪・パラリンピックの開会式は、後世、どのように記憶されているだろうか――。

[制作] 社会部:石崎伸生、高田浩之 校閲部 メディア局企画開発部:武田潤、雨宮健雄、藤垣円、軽部正弘 同データベース部:岩佐譲、本間光太郎
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