戦後70年に学ぶ

パラオ 忘れられた激戦地

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制作・著作 読売新聞

日本から南に約3000km、大小約600の島から成る常夏のパラオ共和国。多くの観光客が訪れ、世界遺産としても有名な同国で、日米による激戦が繰り広げられた事を知る人は少ない。1944年3月はパラオ大空襲。同年9月にはペリリュー島とアンガウル島で玉砕戦が繰り広げられ、日米両軍で約18000人も戦死した。今なお物言わぬ語り部として多数残る戦争遺跡は、我々に戦争のむなしさを伝えている。

ペリリュー島の西カロリン海軍航空隊司令部跡

天井には米軍の砲爆撃によって開いた穴があり、柱の鉄骨がむき出しになっていた

ペリリュー島のジャングルに残る零式艦上戦闘機

ペリリュー島の千人洞窟。旧日本軍は500以上の洞窟を陣地とし、戦闘を繰り広げた

慰霊団などが千人洞窟の中に供えた卒塔婆と旭日旗

終戦後の47年4月まで34名の旧日本軍将兵が一時潜伏した地下洞窟の入口(中央下)

ペリリュー島に残る旧日本軍の95式軽戦車

82年に再建されたペリリュー神社

夕焼けに染まるオレンジビーチ。44年9月15日、米軍が上陸を開始し、死闘が繰り広げられた

44年3月30日~31日のパラオ大空襲で多数の艦船や航空機がこの海に沈んだ

アラカベサン島沖の水深約12mに沈む零式水上偵察機。翼やコクピットなどが原型をとどめている

多くの中国人ダイバーが、零式水上偵察機の前で記念撮影をしていた

オロフシヤカル島沖の水深約20m。逆さまになって沈む零式艦上戦闘機52型のプロペラにはサンゴや海草が付着していた

パラオ大空襲で、水深約43mに沈んだ海軍給油艦の石廊(いろう)。04年には元機関兵が潜り慰霊した

パラオ大空襲の攻撃で、水深約30mに沈んだ陸軍徴用船「てしお丸」

陸軍徴用船「てしお丸」の艦橋。旧日本軍は大型の船が必要になると、民間貨物船などを徴用した

水深約35mに沈む旧日本軍の船。船内に多くの鉄かぶとが見つかったことから、ヘルメットレックと呼ばれる

海底に残された防毒面

重なったまま沈んでいた鉄かぶと

海底に残る爆雷。中には爆破防止のシーリングが施されたものも残る

海底に残る備砲

オロフシヤカル島の監視哨内部の壁に残された「父母ヲ見タクテタマリマ(セン)」の文字

パラオ本島のなだらかな斜面で朽ち果てる零式艦上戦闘機52型

プロペラには数多くの弾痕が残る

垂直尾翼は塗装が剥げ下地が見えていた

パラオ本島に残る艦上爆撃機「彗星」。プロペラ部を誰かが切り取り持ち去ってしまった

パラオ本島に残る砲台

コロール島の海軍墓地に残る石碑には、パラオ大空襲で受けた砲弾の跡が残る

海軍墓地の慰霊碑に刻まれた昭和天皇のお言葉

米軍の空襲で被害を受けたパラオ本島の海軍通信隊跡。長い年月を経て今も姿をとどめている

「米軍は凄まじい空爆を繰り返した」と話すアントニナ・アントニオさん。子供の頃に覚えた日本語を話す

日本の委任統治領となったパラオのコロール島にある旧南洋庁パラオ支庁庁舎。今は最高裁判所として使われている

スクールバスで下校するペリリュー小の児童。天皇、皇后両陛下を歓迎する

故郷に帰る事ができなかった人々の声なき声を、海山の戦争遺跡が語り続けている

【取材・撮影】読売新聞写真部 尾崎孝(大阪本社)、佐々木紀明(東京本社)【制作】東京本社メディア局企画開発部・堀田 梓 橋本 真貴子
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